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SNSにおける「集団攻撃」を発生させてしまう

 もうひとつのポイントは、トーンポリシング批判はSNSにおける「集団攻撃」を発生させてしまうという問題である。トーンポリシング批判は、抵抗や意思表示の手段としての怒りの発露を肯定する。強者である男性たちと弱者である女性たちが対峙するような場面ではそれはとても意味があるのだが、ではTwitterのようなSNSでもそれは有効だろうか?

 私は政治的な意見の異なる人からTwitterで罵声を浴びせられることもあるのだが、それに対して「罵声はやめたほうがいいのでは」とリプライすると、「トーンポリシングだ! 佐々木俊尚がトーンポリシングをやっている!」と非難されることがある。一対一のやりとりであれば、私へのその批判は有効かもしれない。しかしSNSの世界では、「こいつは批判してもいい」と思ったアカウントに対して、多くの人が罵声を浴びせまくるというような光景がしょっちゅう見られる。だいぶ以前のことだが(2012年)、私はこうツイートしたこともある。

©iStock.com

「どれだけ叩いても構わない」と多くの人が思ってる相手を、ネット上で擁護したりすると「なぜ気持ち良く叩いてるのに水を差すわけ?」と驚く人がたくさんいる。そして「お前も叩かれる側に入ったんだな」と擁護者も叩き始める。そして叩かない人たちはそっと遠巻きにして無言で見ている。

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「罵声はやめてほしい」「トーンポリシングだ!」

 このように叩いている人は、とくだん徒党を組んだり組織化されているわけではない。その場の雰囲気の中で「こいつは叩いても大丈夫」と思って叩いているだけだ。しかしそう思う人が100人いれば、100の罵声が飛んでくる。それに対して「罵声はやめてほしい」と訴えると、「トーンポリシングだ!」とさらに怒られる。これは健全な批判なのだろうか? そしてこういう集中的な攻撃についてトーンポリシング批判を当てはめることは、本当に適切なのだろうか?

 批判が増幅し、強化されやすいSNSで、何にでもトーンポリシングを当てはめることは過剰な結果を招きやすいと私は考えている。このSNSという今では公共圏的な役割を果たすまでになってきているメディア空間で、どのようなコミュニケーションをすればよいのかはもっとじっくりと考えたほうがいい。

 最後に、私が折に触れて読み返すことのあるジョン・スチュアート・ミルの『自由論』(光文社古典新訳文庫版、斉藤悦則訳)の一節を引用しておきたい。

「われわれが論争するとき犯すかもしれない罪のうちで、最悪のものは、反対意見のひとびとを不道徳な悪者と決めつけることである」