「トーンポリシング」という用語があり、最近日本でもよく目にするようになった。Twitterでも使っている人を見かける。
トーンポリシングは、日本語だと「話しかた警察」という訳語になるだろうか。弱者が強い怒りとともに抗議することに対して、強者の側が「そんな態度じゃ誰も相手にしてくれないよ。もっと冷静に話さないと聞いてもらえないよ」と諌めるような行為を指す。つまり主張そのものの内容ではなく、話しかたや態度を非難することで相手の発言を封じようとする、否定的な意味で使われている。この「『冷静に』なんてなりません!」というイラスト解説がとてもわかりやすい。
Twitterなどでも、強い口調でなにかの主張を訴える人に対して「もっと冷静に」と諌める人への批判として使われている。諌める人に対して「それはトーンポリシングであり、抑圧ですよ」と指摘するということだ。
女性運動が「ヒステリック」と非難されてきた歴史
まず最初に言っておくけれど、私は「限定的に」トーンポリシング批判を支持している。ウーマンリブやフェミニズムなどの女性運動に「感情的だ」「理性的ではない」「ヒステリック」といった非難が浴びせかけられてきたのは歴史的な事実だ。今もそういう非難は決してなくなっていない。
最近の日本でも、たとえば福島第一原発事故のあとに、放射線で不安になっている女性に対し「非科学的だ」というような冷たい言い方がされた場面は数多く、これも「非科学的」という形容詞の裏側に女性であることへの視線が内包されていたトーンポリシングのひとつだったと思う。そういう不安な人をどう包摂し、放射線というものの事実をどう穏やかに伝えていくのかということが、3・11以降の日本社会の重苦しい課題のひとつだった。
弱者は強者の気分を害してはいけないという「抑圧」
女性や障害者、LGBTなどの弱者=被害者の側が、男性などの強者=加害者に対して、相手の気分を害さないように礼儀正しく接しなければならない、ということ自体も屈辱であり、抑圧のひとつである。
くわえて、怒りなどの感情は決して否定されるべきではない。怒りがあったからこそアメリカでは公民権運動が盛り上がり、人種差別撤廃への原動力になった。あらゆる抑圧から解放されるためには、強い動機が必要になるし、そのためには怒りは重要なパワーの源泉となる。ルサンチマンのような感情は否定されるべきではない。
しかしながら、私は冒頭で私のトーンポリシング批判への支持を「限定的」と書いた。その理由は、この多様化し、SNSのような情報通信テクノロジーのツールが普及している21世紀の社会で、トーンポリシング批判では対応できない場面が少なからず見られるからだ。