現在私がいる部署はいわゆる「窓際」なのだが、障害者の割合が明らかに多い。1人1人の手帳を確認したわけではないが、体感では3割以上が何らかの障害を持っている。他にも障害者を集中的に固めて隔離しておく窓際部署がいくつかあり、それによって雇用率を達成しているのだ。
重度障害者が、健常者の視界から消し去られていく
ちなみに、私に業務の引継ぎをしてくれた前任者も私と同じく電動車椅子に乗っており、これまたそういう部署に転出していった。障害者は決して均等に配属などされていない。
何故そうなるかというと、組織やそこで働く人々が障害者をお荷物としてしか捉えていないからだ。誤解を恐れずに言えば、それは一面では正しい。もし仮に障害特性を除いた部分の能力(そんなものが測定できればの話だが)が平均的であっても、障害者には色々と配慮やサポートが必要になる。重度障害者であればなおさらだ。できれば自分の職場には居て欲しくないというのが偽らざる本音だろう。
「別に差別するわけじゃないんだけどさ、君もそういう配慮が手厚い部署の方が安心でしょ?」かくして重度障害者は健常者の視界から消し去られる。
重度障害者が存在することに、理由を求められない世界を
確かに、職場に障害者が自分1人だけというのは心細い。自分を全くの役立たずだと卑下したり、陰口を叩かれたり、後ろめたさを感じたり、色々辛いことも多い。
それでも、私は信じる。重度障害者が健常者に混じって働く、その大切な意味を。そして夢想する。たとえ突出した能力が無くても、重度障害者が社会や職場のそこここに当たり前に存在している世界を。そこに特別な理由を求められない世界を。
私が長らく忘れていたこの理想を思い出すことができたのは、今回の選挙のおかげである。共生社会の実現に燃えて官僚を目指した日々が蘇ってくる。おそらく私以外にも多くの重度障害者を勇気付けたに違いない。
今の私なら見える。車椅子に乗ったままのキャラクターが鮮やかにきららジャンプする姿が。それはいかなる方法で行われるのか分からない。けれど、間違いなく彼女は飛翔するだろう。