――非職業俳優の方たちの起用や演出についてはどうお考えですか。
深田 本質的には、映画にとって求められるのは、ただカメラの前で魅力的な被写体であるかどうかだけ。必ずしも職業俳優である必要はないし、もっといえば被写体は人間でなくてもいいわけです。水の揺らぎや風に揺れる木でも、魅力的であればその瞬間に映画として成り立つ。キアロスタミやブレッソンだって、職業俳優ではない人たちの素晴らしい演技を引き出しているわけですし。ただ、非職業俳優を起用するためには、何ヶ月、何週間とじっくり役作りをする時間をつくれる、その人達にあわせた脚本作りができる、そういう環境と時間が必要です。濱口さんの『ハッピーアワー』みたいにワークショップの段階から長い時間をかけて作れたらいいなとは思いますが、なかなか難しい。今の日本の映画制作システムのなかでどうやってよりキャストの多様性を広げていくか。これは今後の課題ですね。
――俳優としての資質の違いというよりも、制作体制の違いということですね。
深田 一方で、職業俳優のおもしろさは、考えられる被写体であるということですね。彼らは、主体的に脚本を解釈して、こうなったらおもしろくなるんじゃないかと考えながら演じることができる。表現者としての彼らから返ってくるものを作品に反映させていくおもしろさというのはたしかにあって、筒井さんとの仕事はまさにそういう経験でした。
小津安二郎の『浮草』をやりたくて
――俳優さんがみな素晴らしい演技を見せる一方で、監督は一番熱のこもった演技をあえてカメラの中心から外しているようにも感じました。クライマックスのシーンでも、市子が叫び出すといった身体的な演技を見せずに、ある音を象徴的に響かせるという形を取っていますね。
深田 映画って、観客の方々との想像力の駆け引きだと思うんです。ふだん生活をしていても、他人の心のありようなんて、表情や雰囲気から想像するしかないですが、同じような距離感でお客さんと登場人物とが向き合ってほしい。だから俳優の演技についても、なるべく描きすぎないように、説明しすぎないようにとは意識しています。経験豊かな俳優ほど自分をコントロールできるので、いまこの人物はこういう感情だからこういう表情をしようとか、こういうキャラクターだからこういう発声をしようと器用に演じてくれるんですが、それが逆に人物や物語を説明しすぎてしまうこともある。だから俳優さんには、「もうちょっと演技を抑えてください」と言うことも多いです。もちろん優れた俳優さんはそれをすぐに理解してくれます。市子の最後の場面にしても、彼女の感情がイコールで画面に出てくるような芝居は必要ない、彼女があそこにいることで十分に伝わると思って、あのような演出にしました。
――夜の公園で市子と基子が話し合っているとき、基子の顔を真っ黒な影で隠すのにも驚きました。
深田 あの表現が大好きでずっとやりたかったんです。昔から何かというと脚本に「顔は影になって見えない」と書いていたんですが、実際にやろうとするとなかなか難しくて。つげ義春なんかよくそういう表現をするんですが、漫画だとべたで塗ればいいんだけど、映画ではよっぽど照明をつくりこまないと、そうそう真っ暗にはならないんですね。今回は、ロケーションを選んで、照明部に後ろに街灯を立ててもらい、街灯の光で逆光になる状況を作り込みました。スタッフにこれをやりたいんですって見せたのは小津安二郎の『浮草』です。若尾文子と川口浩が大事な話をしている場面で、カットバック(切り返し)すると川口浩の顔が真っ黒になってるというすごい場面です。