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一人の女性の受難と復讐を描いた衝撃作

深田晃司監督インタビュー

2019/07/27
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映画が見せるのはあくまで人生の一過程

――『淵に立つ』も『海を駆ける』もある意味で宙に浮いたまま映画は終わっていて、ラストシーンのその後は見る者に委ねている部分が大きいですよね。『よこがお』でも市子たちのその後は描かれませんが、そうした曖昧さを残した終わり方は、監督にとって大事な部分なのでしょうか。

深田 それは毎回そうでありたいと意識して作っています。映画が見せるのはあくまで人生の一過程。映画の前にも後にも、彼らの生きる時間は続くことを感じてもらいたい。そういう思いが、ある種の曖昧さとして残るのかもしれません。

――監督は『淵に立つ』以来、映画と一緒に小説も同時に発表されています。小説のほうでは、映画では曖昧だった部分がもう少し明らかにされているように感じますが。

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深田 そうですね。映画は、あくまで目で見えるものしか映らないというカメラの本質的な特性に依存していて、心を映すためには俳優の演技や台詞によって示す必要がある。ただ、そこに頼りすぎるとあまりにも説明的になってしまうので、できるだけ観客の想像に開かれたものになるよう人物関係や物語構成を気にかけて作っています。小説の場合は、映画に比べればより内面描写がしやすい表現形式なので、自分自身の解釈を多少は書くことができる。ただこれもまた僕の解釈でしかないんですよね。監督と作品の関係ってやっぱり親と子の関係に似ているなと思っていて。親は子供の一番身近にいる存在かもしれないけど、結局、子供のことなんて全部はわかってないじゃないですか。僕が言うことが正しい答えではなく、あくまでも自分にとってはこう見えています、というふうに捉えてほしいんです。

俳優が言葉にしやすい台詞を書くことが監督の重要な仕事

©2019 YOKOGAO FILM PARTNERS & COMME DES CINEMAS

――深田監督の同世代やその下の世代の監督さんたちの活躍が近年目覚ましいですが、みなさん、演技におけるリアリティをどう演出をするかという点にそれぞれの個性が強く出ているように思います。たとえば『寝ても覚めても』の濱口竜介監督は、撮影に入る前に俳優さんたちと数週間をかけてワークショップやリハーサルをしたことが話題になりましたし、『きみの鳥はうたえる』の三宅唱監督の場合は、俳優さんたちと過ごす現実での時間を映画にも強く反映されているのかな、と感じました。深田監督の俳優さんへの演出とはどういうものなんでしょうか。

深田 自分の場合は、今名前が挙がった濱口さんと三宅さんを例にとれば、ちょうどその中間くらいにあたるのかなと。基本的には、監督が演技を振り付けすぎないように、俳優たちがなるべくナチュラルな状態でいれるようにしたいとは強く思っています。一方で、俳優たちがナチュラルであることが映画的にリアルであるとはかぎらない。だからそのせめぎ合いですね。あとはいい俳優さんをキャスティングすること。それが一番重要かもしれない(笑)。欧米だったら映画の前に数ヶ月リハーサルをすることも可能ですが、日本ではそういう環境をつくるのはとても難しく、どうしても俳優さん自身が持っている力に頼らざるを得ない。だからこそ、俳優自身がリラックスして自分自身を出せる環境をつくる、彼らが言葉にしやすい台詞を書くことが監督の重要な仕事になります。

――言葉にしやすい台詞はどうつくりあげていくのでしょうか。

深田 まず脚本を書いて、それが生理的につながる会話になっているかどうかを見ていきます。それからリハーサルでの俳優さんたちの様子を見ながら、この台詞はどうも言いづらそうだ、だったらこうすれば言いやすくなるんじゃないか、と修正していく。逆に俳優さんは少し言いづらそうだけどあえてそのままでいってくださいとお願いすることもあります。