全国49代表の出場校が出揃った第101回全国高校野球選手権大会。そのマウンドで主役になると思われた「令和の怪物」こと大船渡・佐々木朗希(ろうき・3年)投手の姿はない。「決勝回避問題」は数日経っても依然、波紋を広げている。

岩手大会決勝で花巻東に敗れ、あいさつする大船渡の佐々木朗希投手(中央)ら ©共同通信社

「私も疲労を考慮して決勝でエースのイチローを抑え投手として温存していたが、結局、投げさせることができなかったのです」

 そう語るのはイチローの恩師で、甲子園春夏5回の出場を果たした愛工大名電高校元監督の中村豪氏(77)だ。1991年夏、エースだったイチローは愛知予選決勝で投げることなく東邦高校に敗れた。

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中村豪氏 ©文藝春秋

「あのとき、イチローに投げさせてやりたかった」

「序盤に大量点を与えてしまい、イチローに登板させる機会を逸してしまった。今回の大船渡の決勝を見ていて、佐々木温存を決めた監督の意図もわからないではありません。ただ、私はずっと後悔している。あのとき、イチローに投げさせてやりたかった」

 中村氏は1978年に愛工大名電(当時は名古屋電気高校)の監督に就任。81年夏にはエース工藤公康(現・福岡ソフトバンクホークス監督)のノーヒットノーランなどの活躍で甲子園でベスト4。90年夏・91年春にはイチローを率いて甲子園出場を果たした。監督時代に14人のプロ野球選手を輩出した名伯楽だ。

「佐々木君が岩手大会の4回戦で12回194球投げたのは、絶対的なピッチャーが彼1人しかおらんかったからでしょう。それが決勝で影響してしまった。私も工藤(公康)のときにベスト4まで行ったときは、それまで3試合投げて彼の体がパンク状態だった。球のスピードも落ちて、相手チームの報徳学園の選手が『今日の工藤の球はキレがねえぞ』って円陣で話していたくらい。それでも交代させることはできず、結局、打たれてしまった。

©文藝春秋

 どうしても監督は1人に頼っちゃうと思うんです。いろいろ問題になっているけれども、私が監督だったら、やっぱり佐々木君をマウンドに立たせていたかもしれませんね。佐々木君の欠場を事前にナインに伝えなかったのも、監督は試合前に選手の気持ちを壊したらいけないと考えて、伝えなかったんじゃないですか」