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これほど神社とか寺の奇妙なフンイキを表現しているものはない

 子供の時(お化けを体験するのは子供でないとダメだというのは、なんとなくボンヤリ、ポケットに手を入れてあるくのがコツだからである)、誰もいない神社なぞあるいていると、どこからともなくパラパラと砂が落ちてきて、木の葉にあたる音がすることがある。おどろいてふりむいてみてもなんにもいない、といったおかしな感じのすることがよくある(もっとも、いまの子供のようにシケンシケンで、ある目的をもって一日一日をすごしているようなイソガシイ子供には体験できないことだろうが……)。なんだろう、私は目的のない散歩をしながらよく考えたものだ。

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 それは「砂かけ婆」のしわざである、と『百鬼夜行』に書いてあった。よく神社とか寺の静かなところでいきなり砂や小石をまく、びっくりしてみるがなにもいない、とある。これほど神社とか寺の奇妙なフンイキを表現しているものはない、昔の人も同じ感じをもっていたんだなあ、と思った。

「みの火」「くらべ火」火の妖怪の正体は?

 よく妖怪とかお化けの本をみていると、火の妖怪が出てくる。私は鬼火すらみたこともないから、「みの火」とか「くらべ火」とか「なになに火」とか書いてあっても分らなかったが、ある時「みの火」というみのに着く妖怪の正体が分った。朝、みのを着て畠にゆく時に、みのにたまった露が朝日にあたってキラッと光る。それがある角度になるとダイヤモンドのように光る。なるほどこれを「みの火」というのだなあ、と5年ぶりに分ったのである。

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 また東北を旅していた時、夕方に稲束に火をつけて焼いているのをみた。広い田で束に火をつけたのを投げるさまをみていると、火だけが近くにみえ、しまいには火だけがさまざまな形で踊っているようにみえた。なるほど、こういうのをみて昔の人はいろいろな火の妖怪を考えたのだなあ、と思った。

 といったぐあいに、私は真面目に妖怪を考えている。政治家の発言を借りれば、いわゆる前むきの姿勢で対しているのだ。

 なんとなれば、ソレがあるからには何らかの理由があるからだ。