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愛と憎しみの甲子園――日本人はなぜ、これほどまでに高校野球が好きなのか

文春野球甲子園 2019

2019/08/07
note

「スポーツ派」vs「祭り派」の果てしない高校野球論争

 私がたどり着いたのは、「甲子園=祭り」説である。

 三田紀房さんが描いた高校野球漫画『クロカン』25巻にこんなシーンがある。

 外国人選手を多数擁する甲子園出場校(セント・ジョーンズ学院)の外国人監督が、120球を超えても続投させる日本式の采配や炎天下での劣悪な試合環境に頭を抱え、「ミンナクレイジー!」と叫ぶ。

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 それを受けて、主人公である高校野球監督・黒木竜次は「ああ…そうだよ 俺らはバカだよ」と応じ、続けてこんなモノローグが展開される。

〈これはあんたらが思っているベースボールでも ましてやプロや社会人 大学の野球じゃねえ こいつはな… 世界にたった一つ この国 日本にしかねえ“高校野球”なんだ(中略)ここで繰り広げられるドラマにシビれるんだ これを感じ取りたくて この甲子園にワンサカやってくる これをクレイジーというならいってくれ… ああ そうさ… この五万五千人! みんなバカばっかり! 日本の夏はバカが集まって 甲子園で祭りをやってんだ!〉

 たしかに、高校野球の異常な熱狂ぶりは「祭り」と表現するしかない。そして高校野球を取り巻く諸問題の根底にあるのは、高校野球を「スポーツ」ととらえる層と、「祭り」ととらえる層の摩擦なのかもしれない。

 たとえば昨今話題になっている「球数問題」も、スポーツ派は「未発達なジュニアアスリートの体を守るべき」と糾弾し、祭り派は「神輿を担ぎたがっている若い衆に、『神輿を担ぎすぎだからやめろ』なんて言えますか?」と現状維持を望む。とはいえ、どちらが正論を述べているかといえば、当然前者だろう。いくら祭りといっても、球児を「いけにえ」にしてもいいわけではない。

 だからといって、私は「高校野球は終わっている」とは思わない。なぜなら、高校野球も問題改善へと少しずつ前進しているからだ。

 急進派からすれば物足りない、牛歩のような歩みかもしれない。それでも今年から「投手の障害予防に関する有識者会議」が開かれ、日程も準決勝と決勝戦の間に休養日が入るようになった。もちろん、地方大会を含めて十分な対策が整ったとは思わないが、少しずつ変化が見えることはたしかだ。これは、高校野球の諸問題を鋭く批判する人々がいるからこそ、体制側にプレッシャーがかかった効果もあるのだろう。

 一方で、「甲子園」が祭りとして発展してきた土壌も理解しなければ、いくら「改革」を叫んだところで実体が伴わない危険がある。現時点で夏の甲子園は多くの観衆の心を動かし、歴史を紡いできた。甲子園を見た少年たちに「自分もここでプレーしたい!」と思わせ、野球振興に大きく寄与してきた。その歴史・功績を無視してしまえば、野球の文化としての歩みを否定することにつながる。

 つまり、今年もこの暑いなか、毎年繰り返される論争を目にするということだ。それをマンネリではなく、高校野球が発展している証ととるのは、さすがにポジティブすぎるだろうか。

 うんざりとした思いがないわけではない。だが、金太郎飴だって毎日なめたら飽きるが、1年に1回なめる程度なら味わえるものだ。それに、私たちが毎年夏になめる金太郎飴は、毎年同じ顔に見えて少しずつ表情がにこやかになっているのかもしれない。

 灼熱のスタンドで汗だくになって苦行を積む愛すべき人々の健康を祈りつつ、私は今年も祭りであり、スポーツである高校野球をその目に焼きつけようと思う。

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