文春オンライン

特集74年、あの戦争を語り継ぐ

「背中に火がついてるぞ!」東京大空襲の夜、14歳の半藤一利は火の海を逃げまどった

「背中に火がついてるぞ!」東京大空襲の夜、14歳の半藤一利は火の海を逃げまどった

戦後74年――いま語られる“半藤少年”の「戦争体験」 #2

2019/08/15
note

 要するに7月にマリアナ諸島を奪われた時点で、この戦争の勝ち目は全くなくなってしまった。それまでは「もしかしたら勝てるんじゃないか」「絶対に神風が吹くんだ」「絶対に日本は負けることないんだ」という空気が強かったのですが、7月以降になると、軍部にとってはどうやってこの戦争を始末するか、というところまで追いやられてしまっていたわけです。本土空襲が間違いなく始まることが明確になったので、いよいよ空襲に備えての疎開も始まる。防空壕も造らされる。そのなかで日本人全体が殺気立ってくるんですね。

 

授業が中止になり、海軍の軍需工場で弾丸の検査を

 私の家でも母と下のきょうだいたちが疎開し、東京には私と父が残る形となりました。その頃私は勤労動員で、軍需工場で働いていました。前年から学徒動員が始まっていたので、大学生たちはみんな戦争に行っていました。若者がいなくなって労働力が減ってしまったため、当時、私たちのような中学下級生はいっさいの授業が中止となって、軍需工場で働いていたわけです。町にいるのはお年寄りばかりになっていました。

 私の働いていた軍需工場は大日本兵器産業という名前で、今ならスカイツリーのよく見える十間橋のたもとにありました。海軍の軍需工場で零式戦闘機、いわゆるゼロ戦の20ミリの機関銃の弾を製造していました。陸軍は20ミリになると機関砲と呼ぶのですが、海軍の場合はまだ機関銃なんです。それで、私たち中学生はその製造された弾丸の品質を流れ作業で検査していました。私がやっていたのは、次々に流れてくる薬莢にゲージを当てて深さを確認し、合格したものを同じように次に流していく。それを朝から延々と続ける仕事です。

ADVERTISEMENT

 私たちは「日本は勝たなければならない」という気持ちで、弾の一つひとつを検査していました。

 

「日本の男はみんな奴隷に、女は妾にされる」

 昭和19年の暮れになると、こんな話を耳にするようになりました。

「日本がもし負けるようなことがあったら、日本の男はみんな奴隷にされる。女はアメリカ兵、イギリス兵、中国兵たちの妾にされる」

 まさかそんなことはないだろう、と思っていても、半分くらいは「本当にそうなのかもしれない」とも思いますよね。だから、薬莢の検査にもますます真剣になった。

 工場での仕事と軍事教練で、授業なんて1日に1時間もやっていません。軍事教練では焼夷弾をいかにして消すか、という訓練もしたものです。戦争のために全ての人間が犠牲になり、勝つために戦い抜くんだという雰囲気が、その頃の世の中にはすでにありました。父親なんかは「せっかく勉強させてやろうと思って無理して学校に上げてやったのに、おまえは工員になったのか」とバカにしていましたが、本人からすれば一生懸命でしたよ。