「昭和二〇年八月一五日正午という、予告された歴史的時刻を無視して、日本の汽車は時刻表通りに走っていたのである」

 紀行作家の宮脇俊三は、著書『時刻表昭和史』の中でこう書いている。宮脇は米坂線の今泉駅で玉音放送を聞いた。その直後、時間通りにやってきた米坂線の坂町行きに乗ったという。そして「こんなときでも汽車が走るのか、私は信じられない思いをしていた」と書いた。

 米坂線は山形県の米沢から新潟県の坂町までを結ぶローカル線。さほど軍事上重要な拠点があったわけでもなく、米軍の空襲禍にさらされるようなこともなかった。むしろ都市部から疎開してきた人たちが多く暮らしているようなところであっただろう。こういう事情もあるから、必ずしも全国津々浦々で鉄道が“時刻表通りに走っていた”とは言い難い。ただそれでも、74年前の今日、終戦の日にも鉄道が走っていたことは間違いない。日本の鉄道は、戦争に負けずに最後まで走り続け、そして終戦後もまた変わらず今日まで走り続けているのである。

ADVERTISEMENT

1945年8月15日玉音放送の後、皇居で涙を流す人々 ©AFLO

 ただ、これをもって「日本の鉄道はスゴい!」とするのは少し早計でもある。実際、戦争末期から終戦時にかけての日本の鉄道網はズタボロであった。いったい、その頃の鉄道事情はどうだったのだろうか。

8月13日「東海道線は大船で折り返し運転」

 当時の新聞を調べてみると、断続的に「列車の運転状況」を報じる短い記事が載っていた。終戦前最後の「列車の運転状況」記事は1945年8月14日の朝刊。前日の13日15時に東京鉄道管理局が発表した情報として例えば次のようなことが書かれている。

「東海道線列車は大船、横須賀線は横浜始発で折返し運転、京浜線は上りは鶴見、下りは品川で折返し運転、ただし一部列車は品川、鶴見間を貨物線を経由して運転し乗車券所持者に限り乗車を認めている」

 京浜線は現在の京浜東北線のこと。運転本数は極めて少なく、折り返し運転を行うなど運転区間も短くなっていた。さらに乗車券を事前に持っていない人は乗ることができないなど、乗車にも制限があったことがわかる。

 他の路線の情報もある。