「私は十九年の暮から終戦まで駅長室に籠城し、遂に官舎に寝たことはなかったですよ。首席や日勤助役も交代に宿直して不時に備えていたので、二十年五月二十五日夜の大爆撃にも犠牲者は千八百人もいた旅客中婦人只一人、この婦人も一旦退避したのに、ホームに置いた行李が惜しさに線路を横断して煙にまかれたものでした」(交通協力会『国鉄線』1951年11月「新旧現場長紙上対談」より)
駅舎が焼失するほどの大空襲だったのに死者1人。それだけ当時の鉄道は“空襲”への備えをしていたということだろう。ただ、残念ながら運行中の列車が狙われて多くの死者がでたこともあった。例えば終戦間際の8月5日、満員の乗客を乗せて浅川駅(現・高尾駅)を出発した直後の中央線が機銃掃射を受けた。こうした事例はほかにもあって、鶴見線国道駅のように今も機銃掃射の跡が残る駅が残っている。
「大丈夫ですよ、汽車だけは」ある新米車掌が振り返る“8月15日”
ただ、こうした厳しい中でも鉄道は空襲被害を受けては復旧、また空襲を受けては復旧、を繰り返して走り続けていた。駅や線路などに限らず、車両も被害を受けていたから、ダイヤ通りの運行などはおよそ不可能だったようだ。もともと大きく減便されていた旅客列車だったが、細い糸をたぐるようにかろうじて運転を続けていた。そして8月15日、終戦を迎える。水戸車掌区に配属されて間もない新米車掌がその当日を振り返った手記がある(中央書院『運輸界』1969年7月号)。その一部を引用しよう。
「『戦争に負けたんだ』。
区長と助役が、青ざめた顔で私達にこう言った。
『信じられない』
焼跡を車掌事務室の車に戻る途中区長はそう言って涙を拭った。
みんな茫然として仕事が手につかなかった。
『戦争に負けたなら、汽車に乗務してもしょうがねえや』
そう言ってさっさと家に帰る者もあった。
それでなくとも乱れていたダイヤは、終戦とあって乱れに乱れていた」
ところが、そんなときに上役である車掌区の区長から乗務の指示が下る。渋っていると、区長は言った。
「『もうすでに三一五列車の発車時間が一時間も遅れている。見たまえ、お客が屋根まで乗って発車を今か今かと待っている。この通り、お願いだ、郡山まで乗って来て呉れないか』」
この言葉に若き車掌は乗務することを決意、終戦直後の列車に乗り込んだ。そして乗客とも戦争に負けたことを話す。
「『信じられないですね』
『汽車も止まって走らなくなるんじゃないでしょうか』
人々に不安の色が浮ぶ。
『大丈夫ですよ汽車だけは……』
私はそう言って、窓から顔を出し、信号確認の大声をはりあげた」
そうして、いつもと同じとはいかずとも、乱れきったダイヤの中で戦争が終わっても鉄道は走ったのである。終戦直後、鉄道が変わらずに動いていることに安堵したという声は多く聞かれたという。激化する戦争の中で、そして戦後の混沌の中で、ほうほうのていであったとしても鉄道が走り続けたことには大きな意味があった。そして少しずつ、また日常を取り戻していったのである。
鉄道は究極の“日常”である。もちろん観光列車のように非日常を提供してくれるものもあるが、こと通勤電車に限れば、毎日当たり前のように走っている鉄道ほど日常的なものはない。人身事故などで1時間ばかり山手線が止まっただけでもニュースになる。それは裏を返せば、走り続けていることが“日常”で“当たり前”であるということ。それが脅かされつつも、なんとか命運をつないで日常であり続けようとした歴史があった。そうしたことにも少しだけ思いを馳せながら、8月15日の鉄道に乗ってみてはいかがだろうか。