「東京急行品川線下り青物横丁で折返し、同駅以遠不通」
東京急行品川線は現在の京急本線で、青物横丁駅以遠は運転されていなかった。おそらく空襲などで運転できる状況ではなかったのだろうと思われる。“帝都”の鉄道とて、けっして万事順調に運転されていたわけではないのだ。
すでに全国の路線はほぼ完成……でも軍事輸送が最優先
そもそも、日本の鉄道は大正から昭和のはじめにかけて“黄金時代”を迎えていた。主要な路線はほぼ完全に整備され、長距離を走る優等列車も次々に登場。特急「富士」「櫻」「燕」「鴎」が走り始めたのもこの頃である。ところが戦争の時代に入ると鉄道も戦時体制に突入。輸送需要は軍事輸送の活発化もあって大幅に増えていたので輸送力増強も求められていたが、戦争が激しくなるにつれて充分な輸送量を確保することが難しくなって特に通勤電車の混雑は激化。さらに不要不急の旅行を忌避する傾向も強まり、貨物輸送優先という軍事上の要請もあって旅客列車は大幅に削減される。
1944年以降は米軍の空襲も本格化して鉄道施設が被害を受けることも多くなり、反面疎開輸送の重要性も高まった。最低限の輸送の安定を図るために緊急及び公務旅行以外では乗車券の購入がほぼ不可能に。先の特急や急行などは次々に廃止され、本土決戦の準備が叫ばれるようになっていた1945年3月20日には長距離列車が東京~下関間の急行1往復以外すべて姿を消している。
と、戦争末期の鉄道網は貨物を中心とした軍事輸送を最優先に、短距離の通勤輸送と疎開などの緊急輸送だけがかろうじて続けられる状況になっていたのである。もちろん、今のように一般人が気軽に旅行するなど、とうてい叶わぬ時代であった。
「日本初の女性車掌」も誕生していた
ちなみに鉄道においては職員の確保も深刻な問題で、主要労働力となりうる若い男性が戦地に送り込まれていたために代替として女性を盛んに採用していた。女性の車掌など今では当たり前になったが、日本で初めての女性車掌はこの時代に“窮余の策”として誕生したのである。
さて、そうした戦争末期の鉄道界、とうぜん空襲の被害も受けている。東京では特に大きな被害を受けたのが5月25日の山の手空襲。この空襲では東京駅や新宿駅などの駅舎をはじめ、山手線のほぼ全線が完全に破壊されるほどの状況に陥った。それでも当時の鉄道マンたちはただちに復旧に立ち上がり、空襲翌日から順次復旧を進めて5月30日までには都心部の鉄道はおおむね運転再開にこぎつけている。
この空襲被害を新宿駅長が振り返っている記事が国鉄機関誌「国鉄線」に載っていた。