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特集74年、あの戦争を語り継ぐ

「背中に火がついてるぞ!」東京大空襲の夜、14歳の半藤一利は火の海を逃げまどった

戦後74年――いま語られる“半藤少年”の「戦争体験」 #2

2019/08/15

「なんだ、これは。どうして僕らのところだけを残すんだろう」

 と、親父と話していたのですが、もちろんそんなはずはありません。B29は下町のいちばん北に位置する私の町のすぐ頭上を通って、自宅のあたりをダーッと攻撃してきました。10日の午前1時ごろであったと思います。

「手袋をはめて、焼夷弾を手に持って庭へ投げろ」

 焼夷弾というのは36本が一束になっており、上空1000メートルより下のあたりで破裂してその1本1本がバーッと広がって落ちてくるんですね。頭上から焼夷弾がバラバラと落ちてくるときは、形容すれば急行電車が頭の上を通っていくような音がしました。私と親父は防空壕の上から転がり落ちて、地面に伏せました。

 今でも胸に焼き付いているのは、それを訓練通りに必死になって消そうとしている人々の姿です。訓練では手袋をはめて、家の中に落ちた焼夷弾を手に持って庭へ投げろ、と教えられていました。

 全くバカげたことを教えていたものです。そうやって焼夷弾を消そうとしていたから、多くの人が逃げ遅れてしまった。3月10日の東京大空襲では約10万人が亡くなったとされます。しかし、実は東京への大きな空襲は、その後の4月13日と15日、5月24日と25日を含め五度もあるのです。後の四つの死者数がそれほど多くないのは、3月10日の空襲の経験から、焼夷弾は消せないということが分かっていたので、すぐさま人々が逃げたことも一因なのです。

 

日本の民家への無差別爆撃を正当化したカーチス・ルメイ

 それにしても許せないのは、この空襲を指揮したカーチス・ルメイというアメリカの軍人です。そもそもそれまでのB29による爆撃は、軍需工場を目標にしたものでした。だから、上空8000メートルから1万メートルという、非常に高度も高い場所を飛んでいたのです。そこまで高ければ、戦闘機や高射砲による迎撃を避けられるからです。

 しかし、それだと偏西風の影響で投下した爆弾が目標を外れてしまうというので、ルメイは低空での作戦を提案しました。しかも、日本の民家では家内工業で軍需製品の部品を作っているから、それも軍需工場と見做してよい、というとんでもない理屈をつけて。アメリカ側の記録を読むと、これには当のアメリカ兵たちが声を失ったそうです。日本軍はもちろんそんな無差別爆撃をやるとは予想していなかった。東京の市街地への包囲殲滅の爆撃を正当化したのですから、本当にヒドい奴だと思います。