「こういう人生だったかもしれない」
そう感じることが読みごたえだとしたら、この作品にはそれが詰まっている。
人はだれしも、一度しか人生を送れない。一度しか、連続した時間の当事者になれない。
生まれついた国、そこで体得する母国語。
生まれついた家、そこで晒し合って接触する家族。その遺伝から形成される顔、皮膚、体のかたち。
生まれついた時代、そこで制約される、あるいは自由になる行動や視野。
だれもが、たまたま生まれついた人生を、それぞれ当事者として送る。
自分の人生を努力して送った人を「逞しい」と、この作品は言わない。
目標をたて、努力し、挑み、挫折し、反省し、再び挑み、つねに明るく前向きに進む人が逞しいのなら、逞しいとは、そう進む前段階の、たまたま生まれついた人生の運なくして成り立たないではないか。
『三人の逞しい女』は、たまたま生まれついた時点から運が欠けていた三人の話である。さまざまな種類の、いくつかの運が欠けていて、その人生には、まず不運がある。不運はたまたまであり、たまたまだからこそ、どうしても排除できない。
一話目のノラは父親が。女性として妻として母親として社会人として、(あえて乱暴に言えば)勝つための分岐要素となる父親が。
二話目のファンタは選んだ男、いや、こういう男を選ぶことになる、宗主国と植民地国の関係が及ぼしてきた積年の感覚が存在した不運が。
三話目のカディにいたっては、ノラやファンタの不運の、さらなる根底にあって、さらに拡大してしまった、もはや個人的な能力、個人の意思では、どうにもしようのない全時代的な不運がのしかかっている。
だが、ノラのような、ファンタのような、カディのような、そして、彼女たちをとりまく人々のような人は、まちがいなく、存在するのである。
まちがいなく、今、この作品を読む自分と同じ世界にいて、各々の人生を、それでも生きている。あるいは生きていたのである。
著者のマリー・ンディアイは、アフリカ、セネガル人の父親と、ヨーロッパ、フランス人の母親の間に生まれた。多くの日本人にはあまりない背景で成育した作家であり、その背景から創作された物語は、多くの日本人にとって、知らない状況や事情の中に嵌(は)められている。
にもかかわらず、「こういう人生だったかもしれない」と感じるpuissantes(強い)筆力で、読む者を牽(ひ)いてゆく。
三人の女と、彼女たちをとりまく人々すべてが、それぞれに一個の人間であり、それぞれの人生を踠(あが)いているのだと気づかされる。自分の置かれた場所の安全さがうしろめたくなる貴重な気づきを与えてくれる一冊である。
Marie NDiaye/1967年、フランス中部ピティヴィエでセネガル人の父とフランス人の母の間に生まれる。小説家、劇作家。2001年『ロジー・カルプ』でフェミナ賞、09年『三人の逞しい女』でフランスで最も名誉ある文学賞とされるゴンクール賞を受賞。
ひめのかおるこ/1958年、滋賀県生まれ。作家。2014年『昭和の犬』で直木賞受賞。『受難』『彼女は頭が悪いから』など著書多数。