カズオ・イシグロが帰ってきた! 「絶対損はしないから読んだほうがいい」と自信を持って薦められる作家。本書はそのイシグロの10年ぶりの新作だ。
帰ってきたイシグロは、相変わらずイシグロだった。つまり、めっぽう面白く文句なく読ませる。
傑作『日の名残り』や忘れがたい『わたしを離さないで』など、イシグロ作品を特徴づけるのは、「自分はいったい何者なのか?」という問いである。
だが登場人物たちに決まってつきまとう不思議な忘却が、その自己探求を難しくする。喉元まで出かかっているのに言葉にならないあのもどかしさと不安が読者に感染する。気づけば、「あなたに何が起こったのか?」と作中人物に問いかけながら、読者は頁を繰る手を止められなくなる。
本作でもこの忘却が人物たちを苛(さいな)む。舞台は、伝説のアーサー王亡きあとのイングランドだ。ブリトン人の老夫婦アクセルとベアトリスはある日、別の村に暮らす息子を探す旅に出る。
ところが旅路があらわにするのは、息子が去った理由をはじめ、二人の大切な記憶がことごとく失われているという事実なのだ。
途中で出会うサクソン人の戦士ウィスタンと、アーサー王の甥である老騎士ガウェインの剣や馬を扱う仕草、戦闘の際の動きが、アクセルに手に取るように読めるのはどうしてなのか? しかも彼らのほうも、アクセルのことをおぼろに知っている気配なのだ。
いまだ悪鬼や妖精が森に潜むイングランドの住人がみな、奇妙な記憶喪失に取り憑かれているのは、どうもクエリグという雌竜の吐く息のせいらしい………。
愛情の絆が深い夫婦だけが一緒に暮らすのを許される小島、秘密を隠した修道院。老夫婦が同行することになるサクソン人の少年の脇腹に残された正体不明の噛み傷。中世の騎士道物語の舞台設定を借り、謎に満ちたこの小説には、ミステリーやファンタジー小説を読む愉楽がある。ウィスタンやガウェインの戦闘場面は鮮烈で映画的である。
アクセルとベアトリスが過去を取り戻すには、雌竜クエリグを倒せばよい? そうすれば忘却の霧は消え、彼らばかりかすべての人々の記憶が甦る?
だが、在来のブリトン人と東から来たサクソン人の血塗られた争いに終止符が打たれ、平和がもたらされたのは、憎悪と怨恨の忘却のおかげとも言える。
甘美なものとは限らぬ過去の記憶にどう向き合うべきなのか? 現在の日本に生きる我々にとっても決して他人事ではない切実な問いが投げかけられている。