イラストレーション:溝川なつみ

 朝、宿の庭先にこんもりとした雪山ができていた。何だろうと考えていて、そこには前夜、宿のワゴン車がとめてあったのを思い出した。

「一メートルほど積もったねぇ」と女将が言う。それだけ降れば、車などすっぽり埋もれてしまう。

 宿の主人は自家用除雪機を唸らせて庭の雪を吹き飛ばしていた。朝晩除雪しないと家から出られなくなってしまうからだ。市の除雪車がゴゥゴゥ音を立てて道を開けていく。

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 一月中旬、新潟県上越市安塚(やすづか)区。平成大合併前の安塚町だ。多い年には五メートルの積雪があったという土地だけに、この程度の雪なら日常の延長でしかない。とはいえ、雪はやっかいな存在だ。道路の除雪では、道の両側にうずたかい壁面ができてしまう。道幅が狭くなって、見通しも悪くなる。

 だが、この壁面に沿って穴を開け、中にロウソクを灯したらどうだろう。暗くて重々しい雪国の冬が、幻想的な世界に変わる。たとえ一夜限りであっても、迷惑な雪が芸術品に変わる。

 そんなイベントが安塚にある。毎年二月の第四土曜日に行っているキャンドルロードだ。今年は二月二十五日に予定している。

 雪の多い年の「ロード」は全長三十五キロメートルになったことがある。自分の家の前の「壁」は各戸が責任を持って灯すので、区内の約千世帯が挙(こぞ)って参加する。

「点灯する道路延長も参加人数も、世界最大だと思います」。NPO雪のふるさと安塚の事務局長、岡武夫さん(65)は胸を張る。このNPOは合併で失われる町の機能を補完しようと、旧町役場が区内全戸に加入を呼び掛けて設立した団体だ。岡さんは新市で役場機能を引き継いだ区総合事務所の元所長で、キャンドルロードでは安塚観光協会と一緒になって取りまとめ役を担っている。

積雪が屋根に届く(安塚区須川)=1月14日撮影

 ただ、最初から豪雪を逆手に取って楽しむ催しだったわけではない。「やっているうちに今の形になったのです」と岡さんは説明する。

 ルーツは一九八二年、安塚中学校のグラウンドで始まった集落対抗の雪像コンテストだ。雪が最も深くなる二月下旬、高校生を家から引っ張り出して力を発散する場を作ってやろう、そして社会活動に参加するきっかけにしてもらおうと、旧町の公民館が企画した。

 安塚観光協会の事務局を務める佐藤吉雄さん(52)は、区内で最も雪深い須川集落の生まれだ。「あの頃の冬は暗かった。どの家も父ちゃんは出稼ぎ。残された家族は明けても暮れても雪掘りでした。自家用除雪機などなかったから、全て手作業でした」と話す。降雪量が桁外れに多い安塚では「雪かき」ではなく「雪掘り」と言う。

 雪像コンテストは、そうした人々の心をとらえたのだろうか。翌年から雪上運動会や演劇会、ジャンケン大会なども加えて、真冬のイベントとして定着していった。

 これがキャンドルロードに発展したのは九四年だ。「山の方の集落が、道路の雪の壁にだーっと穴を開けて、ロウソクを灯したんです。その光景がすごく美しかった。対岸から見ても光の列が連なって……」。岡さんはその時の感動が忘れられない。キャンドルロードは一気に各集落に広まり、観光客が訪れるようになった。

「せっかく見に来る人がいるのだから、甘酒やしるこでもてなそうと、集落で『雪茶屋』を始めたのは須川が最初でした」と佐藤さんが言う。スキー好きが高じ、須川の旅館を買い取って移住してきた東京の紳士服店主が発案した。

 雪茶屋とはキャンドルロードだけで使われる造語だ。集落ごとにアニメキャラクターの雪像を造るなど、工夫を凝らした会場にテントを張り、温かい食べ物をふるまう。

 須川の雪茶屋は、訪れる車で大渋滞した。それを見て負けん気を出した集落が次々と雪茶屋を開いた。こうして催しの会場は、グラウンドから各集落に移り、雪茶屋は十五箇所で設営された。