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ワイルドな難路に「なぜこんなところに……」秘湯中の秘湯が、執念の結晶だった話

ワイルドな難路に「なぜこんなところに……」秘湯中の秘湯が、執念の結晶だった話

白山麓の“エクストリーム温泉”その1

note

「山崎旅館」完成後も、信一氏は止まらなかった

――信一さんの究極的なゴールは、地域の復興だったのですね。

太一朗氏 ええ。なので、山崎旅館を作った後には、「近隣地域の一里野にまで温泉を引っ張りたい」と一里野の地域開発に乗り出したんですよ。

――「山崎旅館」に飽き足らず……。

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太一朗氏「山崎旅館」のあるところは、山や谷の狭間でスペースもないので、温泉街は作れません。雪が積もるので冬季は営業できないですし。

 ですが、「山崎旅館」からさらにくだった場所に尾添という集落があって、そのすぐ上の一里野という平野で田んぼなどを耕して暮らす人が多かった。それならば、一里野まで温泉を引っ張ったら、みんなで温泉街を作れるではないか、と。

 当時、県がダム建設やスーパー林道(*)を作る計画を進めたがっていたこともあり、県側と「じゃあ一里野の地域開発を一緒にやりましょう」という話に至ったようです。その枠組をまとめている最中の1970年、59歳で祖父は亡くなってしまったのですが。

「山崎旅館」の前に建つ山崎信一さんの胸像

*スーパー林道……60年代から90年代にかけてつくられた高規格林道。ここではのちに観光道路化した「白山白川郷ホワイトロード(旧・白山スーパー林道)」を指す

――最後まで見届けられなかったのですね。

太一朗氏 そうですね、残念ながら……。でも、その6年後、地域の方々の尽力や県の協力によって、一里野に温泉が到着しました。

 岩間温泉の源泉から一里野まで、計10キロ引っ張っています。源泉では100度くらいある温泉なんですが、10キロ運ばれるうちに、一里野には50度ぐらいで到着するんですよ。

――それでも50度もあるんですね。

太一朗氏 ええ。おかげで湯を沸かす必要がなくて、他の温泉地に比べて経済的に有利なんです。しかも、毎分約600リットルの温泉が今も脈々と注がれているので、この地域の温泉はすべて源泉かけ流し。これがあるからこそ、地域が成り立っているという“生命線”みたいなものかな、と。

 温泉が到着した翌年の1977年には祖父の意志を継ぎ、家族が自宅だった古民家を移築して、一里野高原ホテル(現「一里野高原ホテル ろあん」)を作りました。白山一里野温泉スキー場もオープンし、今の一里野の原型が完成したわけです。

一里野高原ホテル ろあん」の内観
一里野高原ホテル ろあん」の食事処。奥の時計は100年選手だが「まだまだ現役」なのだそう

――70年代に、すでにスキー場が。

太一朗氏 そうなんです。当時はスキーってまだまだ一般的でなくて、「こんなの作って、客なんてくるのか」という感じだったらしいんですけど(笑)、バブルでブームが到来して……。

 スキー場に関しては誰が言い出しっぺなのか分からないのですが、祖父が書いた手紙にも言及はあります。

次から次へと新しいことをやるから、いつもお金がなかった

――やはり、信一さんは先見の明がある人だったのでしょうか。

太一朗氏 どうでしょう。とにかく新しいこと、洒落たことが好きな性格だったことはたしかですね。「山崎旅館」も、こんな山奥ですけど、当時珍しかったジュークボックスを入れたり、結構凝った作りをしてあるんですよ。「岩間音頭」という音頭を作ってみたり。

 旅館にお客さんが来るようになって、ある程度形になっても、また次のことにお金をかけちゃう。次から次へと新しいことをやるから、いつもお金がなかったというようなことは聞いています。