工事に6年かかった理由
――来てみて、びっくりしました。大自然のど真ん中にありますね。
太一朗氏 ははは、ありがとうございます(笑)。「日本秘湯を守る会」の会員の方々が来られた際に、「秘湯中の秘湯だね」という言葉をいただきました。
――「山崎旅館」を作るのに、初代の山崎信一さんが大変な苦労をしたと聞きました。
太一朗氏 木の管を2000本つないで源泉から湯を3.5キロ引き、6キロの道路を作った末にできた宿なんですよ。着工は1951年。工事に6年かかったと聞いています。
――雪深い地域ですし、なかなかスムーズに進まなかったのでは。
太一朗氏 ええ。冬の間は作業できないですし、道も崩れたりもしてなかなか進まなかったようです。しかも、当時は工事もほとんど手作業。ダイナマイトでバチンとはじいて、そのがれきを捨てながら道にしていたみたいですね。
「地域の財産を守らなければ」と“脱サラ”した初代
――なぜそこまでの苦労をして、この宿を作りたかったのでしょう。
太一朗氏 岩間温泉は、昔からこの地域の人には効用が知られていた温泉だったんですよ。当時は農閑期に布団や米を担いで、小屋を建てて寝泊まりして湯治をしていたんですよね。ほとんど崖のようなところを、徒歩で通って。
そんな温泉だったから、「集落にまで引っ張って活用しよう」という引湯計画の話は毎年のように出ていたらしいんですが、毎回頓挫していました。
しかし、あるとき、外から大資本が入ってきて開発しようとしているという話が出まして。「地域の財産を守らなければ。自分がやる」と祖父が言い出したんです。
――それまで、信一さんは何をしていた方だったんですか。
太一朗氏 近くの発電所の職員でしたが、「岩間温泉の引湯計画を進める」と決めてから、40歳で辞めています。今で言う“脱サラ”でしょうか。
その後、土建会社を立ち上げ、地域の人を雇い、国の補助金をもらいつつ作ったと聞いています。林道をつける費用は1割が地域負担だったので、その1割は祖父が自費で出したようです。
――ものすごい執念です。
太一朗氏 当時すでに過疎化が進んでいたことにも、危機感があったみたいですね。住民がどんどん減っていく中で、地域のために何ができるだろう、と。