「結局、僕は野球が下手くそだったことがよかったんでしょうね」
2008年。入団1年目の春季キャンプで、高田監督に即戦力と見初められた三輪は1軍スタートを勝ち取るも、2週間でファーム行きとなる。カルチャーショックが凄すぎて、記憶はほぼ残っていない。
「だって、青木宣親がいるんですよ。宮本慎也がいるんですよ。『なんなんだこの世界は』って不安で不安で、毎日緊張していました。イップスも不安でしたけど、ひょんなことから治って、ただ自分の中で『これでプロで生きていける』なんて思ったことはないです。どこから生きていけるかっていう定義がわからないじゃないですか。ただ、1年1年、1試合1試合、1球1球が積み重なって今がある。ただ積み重ねたものを振り返ってみても、あまり『俺、上手くできたな』と思ったことはないですね。たとえばポジションにしたって、本当はショートに強いこだわりがあったんですけど、外野もやらないと生き残れない。あそこもここもで『もうどうにでもなれ』って感じで、必死にやっていたら、気が付けば全ポジションを守っていたんです」
2019年。プロ12年目を迎えた三輪は35歳となり、前年には独立リーグ出身者としてはじめてFA権を取得。あの年のドラフトでスワローズに入団した高校生1巡目の佐藤由規も、大・社1巡目の加藤幹典も皆チームを去り、野手では三輪が最後の現役選手となった。
「結局、僕は野球が下手くそだったことがよかったんでしょうね。バッティングは打てないし、守備も凄く守れるかというとそうでもない。練習をしないとすぐダメになるんですよ。山口産業の時に一緒に入ってきた如水館のショートのヤツなんて、何もしなくてもできるんです。でも、僕が彼と同じように練習をしないでいたら、一気に下手になってしまったんですね。本当は環境やリーグがどこであろうとやるべきことは変わらないんです。『軟式ならできる』『プロじゃできない』というものじゃない。『やらなきゃいけない』んです。山口産業でも、香川でも、スワローズでも同じ。やっていないと置いていかれるんです。それはドラフト1位でもドラフト最下位でも同じことですよ。自分がやれることをやらなければ、生き残れない。その準備をひとつひとつやってきたから、ここまでやってこられたんだと思っています」
プロに入れるとしても「ドラフト最下位」。下手くそだということを自覚しているからこそ、万全の準備の上に、捨て駒でも汚れ役でも、必要とされるパーツになることができる。それが三輪の強みだった。