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 証券マンを殺してしまったその罪について、アーサーは葛藤しない。それどころか、自らの暴力の発動に彼は高揚し、殺人が富裕層への反撃として人々の間に共感を生んでいくことに喜びを見出す。

 アーサーの妄想のなかで、ソフィーは殺人ピエロを咎めず、「この街のヒーローよ」と共感を示した。彼の妄想のなかでは、他者は自分を否定しないのである。問題は「他者や社会が自分を承認するか否か」というところに集中し、自らが振るう暴力そのものは焦点化されない。

ソフィーを演じたザジー・ビーツ ©AFLO

『JOKER』が暴力の是非をあえて問わない理由

 本作と同じく「バットマン」の物語を原作とする映画『ダークナイト』では、私的暴力を用いて犯罪者に制裁を加えるバットマン=ブルース・ウェインが、市民社会を護るために法外の力を使うというパラドックスを自覚し葛藤しながら、それでもゴッサム・シティのために戦い続けていた。

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 人々の共感の外側で、自らの暴力について煩悶していた『ダークナイト』のバットマンと、暴力によってこそむしろ人々の共感の内側に入り込んでいく本作のジョーカー=アーサーは対照的に映る。

『ダークナイト』のように暴力というものの是非を問うことなく、主人公の承認の問題にフォーカスすることによって、『JOKER』はそれを観る観客たちに共感を呼び起こすことに成功していると言えるだろう。

主人公を演じたホアキン・フェニックス ©AFLO

なんとでも解釈できるラストに意義はあるのか

 暴力に溺れていく弱者としてのアーサーの姿を如何に考えるべきかという問いや提言は、本作においては表現されていない。劇中には観客を惑わしミスリードするような描写や展開が多く、物語は常にどこか不安定で、自分が観ているシーンのどこまでが「現実」として描かれたものなのかが、観るほどに分からなくなっていく。

 特に精神病院でのラストシーンは、本作の下敷きとなった作品のひとつ『キング・オブ・コメディ』のエンディングよろしく、それまでの映画全体の展開まで含めてどのようにでも解釈できるものになっている。

 揺らぎのある物語のなかで確かなのは、共感や承認を求めて彷徨ったアーサーの暴力に走る姿がわたしたちの目の前に映った、という点だけだ。確かなことが判然としないからこそ、アーサーの暴力の鮮やかさが際立つ。それを如何に判断するかという問いは提示されず、その鮮やかさだけがくっきりと印象に残るのである。

 弱者の苦しみと、そこからの暴力への傾倒を、どのようにでも解釈できる形でこの2019年に描くことに、正直言ってわたしはあまり魅力を感じない。そういう事態を、作り手の意志を明示せずに描きそのまま放り出したかのような本作の作りに、薄気味悪さすら感じる。