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 加えて言ってしまうと、本作に登場するキャラクターはおしなべて、その役割をあまりに単純な記号性に転化させられている。善人の役割を与えられるのは低身長症の男や黒人のシングルマザーであり、先述した横暴な証券マンたちは若い白人男性である……など。それらのキャラクターの行動原理は非常に単純化されており、観客はそれに裏切られることはない。しかしそれもアーサーの妄想のなかの出来事だったとすると……というように、無限にエクスキューズが用意され、作品内の社会像が具体的に実を結ぶことがない。

 だからこそ、先述の暴力の問題と同じように、アーサーの承認への狂おしい欲望だけが浮かび上がる。本作のそういった特徴が、多くの観客のアーサーへの共感を掻き立てるのだ。

他者に共感することは、他者を「理解」することを意味しない

 アーサーはラストシーンで、自らが思いついたジョークを聞かせてくれとせがむカウンセラーに対し、「君には理解できないよ」と嗤(わら)う。

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 映画の構成上、この台詞もまたどうとでも解釈できるものであるわけだが、これが仮にわたしたち観客にも向けられた台詞であるとしよう。そう考えると、映画の展開における描写がすべて不確かなものである以上、確かにわたしたちはアーサーを「理解」することができない。そのための手掛かりがない。だが、物語を眺める中で抱いたアーサーへの強い共感の心情を持って、わたしたちは彼を「理解」できたような気になってはいないだろうか?

 言うまでもないことだが、他者に共感することは、他者を「理解」することを意味しない。すべてが不確かな『JOKER』の世界を生きるアーサーにわたしたちが共感してしまうことは、人間はそれをきちんと「理解」するに足る情報が不足していても、その対象や状況に共感できてしまうことを意味している。

 本作はそういった共感のプロセスを描くこと、そして劇中の人々だけでなく観客をも共感のプロセスに巻き込んでいくことには成功しているが、そのことそのものに対する批評的視座には欠けている。それをあるがままに描いて放り出すことを面白がり、「君には理解できないよ」と嘯くことで、作り手たちは最終的には観る者を突き放しているようにわたしには思える。

©iStock.com

 2019年現在、世界中いたるところで共感の輪は広がっている。政治についてであれ文化についてであれ、ネットやSNS上を通して、人々の共感は日々連鎖し続けている。対象の姿をでき得る限り正確に捉え「理解」しようとすることではなく、実体の不確かな対象に対して感情的に共感することばかりが連鎖していく。

 世界のそういった危うい状況を『JOKER』は的確に反映してはいるが、そのことを主題化し、そういった状況に対して何がしかの意志を表明することはできていない。作り手たちはそもそもそういう動機を持っていないのかもしれないが。

 共感が無限増殖する世界の「反映物」としての『JOKER』を媒介に、また更に共感の輪が広がっていく光景は正直言って、陳腐だ。