「引いた視線」にある、虚構に埋没しない冷静さ
私は「なつぞら」のノベライズを書いていて、大森寿美男の脚本を最初に読んだとき、広瀬すずの怜悧でピュアな黒い瞳を思い浮かべた。彼女が演じるヒロインが戦争による虚無をその大きな黒い瞳で見つめている様を強烈に。だから最後もその瞳の描写で終わらせた。
その話を舞台『Q』公式パンフレットの取材のとき、広瀬にしたところ、バスケでガードという司令塔的なポジションをやっていたこともあるからか「見る」行為に慣れていると、ある映画監督にも言われたことがあり、「Q」でも「見る」役割があるのだと言った。引いた視線を自然と養ってきた彼女の演技には、虚構に埋没しない冷静さがある。儚さと隣合わせに感じる強さは、スタンドアローンで世界を見つめる精神性なのだ。
「ちはやふる」で、膨大な百人一首のカルタから、読み手の第一声を空気の振動レベルでキャッチし、誰よりも先に札を獲得するシャーマン的行為もそれに近いし、その選ばれし者感は、筒井康隆の「七瀬ふたたび」「エディプスの恋人」のヒロインなども合いそう。「Q」では、それこそ「平家物語」に書かれた「もののあわれ」――宇宙的スケールの「無常観」まで彼女の視線は遠く広く引いていく。
「リアルな感情ではなく音でセリフを言うように」
世界中の愛を失った人々の哀しみが広瀬すずに幾重にも重なり胸を締め付けられる。細い弦が震えるような声は、野田秀樹の祈りのようなセリフを増幅させる。これは以前から野田の舞台に多く出演している松たか子がとても巧いのだけれど、同じジュリエット役だし、広瀬すずも松に次ぐ声のチカラをもっているように思う。
当人は最初、声を心配したそうで、野田には、リアルな感情ではなく音でセリフを言うようにと指示されたそうだ。それは志尊淳も同じことを言われたとパンフレットに書いてあった。現代の等身大の人物を描くドラマや映画で必要とされるナチュラルな発声とはまた違う表現をこの舞台で学ぶことで、彼らはまたひとつ飛躍したことであろう。
声だけでなく、広瀬はこれまで、作り込まずその場で感じたものを大事にするという演技の方法論に則ってきた。それ故に感受性の鋭さは人一倍だ。おそらく、現場で彼女の心が動かなかったら、その現場は失敗だろうというくらい嘘と真実をその瞳で正確にジャッジする。だからこそ、なにかを感じたとき、それをどういうふうに身体全体で表現するか、その都度、適切な表現があることを学べば最強だ。
野田秀樹の舞台は、日常系の芝居ではなく、そこから大きく飛躍する芝居なので、その表現を学ぶことによってこれからの広瀬すずはもっともっと豊かな俳優になるだろう。パンフレットの取材では、当人もアスリートのように冷静にいまの自分の状況と課題を自覚している頼もしさを感じた。