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「僕はチームが勝つ楽しさを13年目にしてようやく知ったんです」

 長崎さんは約束通り、関根監督退陣を機にホエールズを離れ、阪神でいきなりリーグ優勝と日本一を経験することとなる。

「首位を争うチームにいると試合に出なくても毎日充実感がある。僕はチームが勝つ楽しさを13年目にしてようやく知ったんです。85年の阪神はチーム全員が勝つためにどうするかを考えていて、試合中も川藤幸三さんを中心に代打陣が集まって展開を予想しながら準備するし、R・バースも僕の配球ノートを見せてくれとしょっちゅう頼みに来る。普段長いバットを使うバースは、球の速い投手との対戦では僕の短めのバットを借りて、コンパクトに振ってヒットを打っていましたね。元々阪神の野球も大雑把だったけど、ロッテから来た弘田澄男さんや僕が配球ノートを付けていたことでみんなの意識が変わり始めたんです。僕も前年までチェックしていた阪神投手陣のクセと、大洋の選手のクセはみんなに伝えました。この年新人で入った和田豊もノートの付け方を教わりに来ましたよ」

 一方、85年の大洋は阪神に6勝17敗3分けを喫し、優勝の引き立て役となってしまう。長崎さんは代打、時にはスタメンで出場し、斎藤明夫からサヨナラ弾を放つなど大洋戦で打ちまくった。長崎さんの存在なしに85年の阪神フィーバー、そしてバースの三冠王は成しえなかったのだ。逆に大洋からすると「長崎トレード」が大きなダメージになったことは間違いない。

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 1985年11月2日、阪神の3勝2敗で迎えた西武-阪神の日本シリーズ第6戦(西武球場)で先発出場した長崎さんは、第5戦の2ランに続いて初回に高橋直樹から満塁ホームランを放ち、一気に日本一を手繰り寄せる。その瞬間、ラジカセでラジオ中継を流しながら公園でゴムボール野球をしていた僕ら大洋ファンたちの動きはピタリと止まった。その日は土曜日で学校は昼まで。当時の日本シリーズは全試合デーゲームだった。

「長崎やったよ!」

「長崎が満塁ホームランだって!」

 まだ見慣れない縦縞のユニフォームに背番号3を背負い、大洋時代には見たことのない派手なガッツポーズ。たった1年ですっかり阪神の人になった長崎さんの姿には何とも言えない思いがあったけど、「僕らの頼りになる長崎」がこうして日本中から注目を浴び、躍動しているのは心の底から嬉しく、誇らしい事だった。大洋からは出ていく形になったけど、長崎さんの頑張りはここで実を結んだのだから。

1985年日本シリーズ第6戦で満塁弾を放った長崎さん(スポニチ誌面より)。シリーズでの2安打は共にホームラン。優秀選手賞に輝いた ©黒田創

長崎さんとホエールズとの縁はつながっていた

 その後の長崎さんの歩みには大洋での人との出会いが大きく関係している。

「87年末に阪神から戦力外通告を受けたのですが、まだやれると思い関根さんに相談に行ったんです。そうしたら“優勝も経験できたし、もういいだろ?”って。そこで素直に引退を決めました。その後熊谷組や東芝府中など社会人チームのコーチもたくさんやりましたが、それは大洋の若手時代に飲みに連れて行ってくれた投手コーチの鈴木隆さんや、キャッチャーの伊藤勲さんの紹介によるものなんです。僕はほとんどお酒を飲まないので、遊びに行くにしてももっぱら2人の運転手役でした。でもそんな中で普段は縁のない業界の人たちに逢えたり、そうやって引退後も声をかけてもらえる。熊谷組で指導した中には波留敏夫がいますよ」

 チームを離れても、長崎さんとホエールズ、そしてベイスターズとの縁は間接的に繋がっていたのだ。

「改めて振り返ると、大洋は本当にいいチームだったと思います。勝てなかったけど練習は厳しかったし、何より自分のプロとしての基礎の部分を作ってくれましたから……。入団時のオーナーの中部謙吉さんにも可愛がっていただいて、よく鯨の肉を差し入れしていただいた思い出があります。家族的なチームでした」