1972年にドラフト1位で入団し、やがて大洋ホエールズを代表するプレーヤーとなった長崎慶一さん。しかし30代となり、最も脂がのってくるはずの時期は人知れず悩みを抱えていた。(前編から続く)

1972年にドラフト1位で入団し、大洋ホエールズを代表するプレーヤーとなった長崎さん ©鈴木七絵/文藝春秋

「関根監督の在任中は大洋に残る」

「実は81年のシーズンが終わった時点で、球団にトレードを志願しているんです。詳しい内容は言えませんが、人間関係でどうにも我慢ならないことがあって、82年から新しく監督になった法政大学の大先輩である関根潤三さんにもその旨を伝えました。すると関根さんは“俺がいる3年間だけは我慢しろ”って。そのひと言で残ることにしたんです」

 時系列は前後するが、84年末に長崎さんは阪神・池内豊投手との交換トレードで阪神に移籍している。84年はケガと不振に苦しんだものの、82年に首位打者、翌83年もセの打撃10傑に入る.305をマークした長崎さんのトレードは、ホエールズ~ベイスターズの球団史における数々の不可解な放出劇の筆頭に挙げられる一件である。しかしそれは「関根監督の在任中は大洋に残る」という約束ありきのことだったのだ。

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 そしてそのトレード発表前、84年秋に出た『ファンマガジン横浜大洋』の選手からのメッセージ欄には長崎さんのこんな意味深発言が掲載されるのである。

“今年のオフは忙しくなるんじゃないですかね。(トレードのうわさで)新聞に僕の名前ばっか載って(笑)”

 裏事情を知る由もない当時小学4年生の筆者の頭の中は「なんで少し前に首位打者になった長崎がトレードなの?」と疑問符だらけになった。その後、あっけなくトレード決定の報道。呆然としたのをよく覚えている。

1982年に打率.351のハイアベレージで首位打者に輝いた長崎さん

 ともあれ、関根新監督に説得されて82年もチームに残った長崎さんは、再起を図るべく奮闘する。

「関根さんは温厚に見えて厳しい方です。少し休めば長引かない程度のケガをしていて、今後のために1試合休ませてほしいと頼んだら、“休んでもいいけど帰ってくる所はないぞ”と突き放す。続けて“いまお前がスタメンから抜けるとチームバランスが変わってくるだろ?”とも。これには身が引き締まる思いでした。関根さんの就任はいずれ長嶋茂雄さんを監督に招聘するための布石と言われたし、尊敬する長嶋さんが本当に大洋に来ていたらそのまま残っていたかもしれないけど(笑)、関根さんがチームに与えた影響は大きかった。僕ももう一度やる気になって、高木豊ら若手も育ちましたから。今思うとユタカは誰にでも話を聞きに行く柔軟性がありましたけど、屋鋪要は完全にわが道を行っていました。あれだけずば抜けた運動神経があるんだから、もう少しこうすれば……と言っても“僕は強く振ってホームランを打ちたいんです”の一点張り。そういう意味で2人は両極端でしたね」

「関根さんがチームに与えた影響は大きかった」 ©鈴木七絵/文藝春秋

 82年の長崎さんは5月23日中日戦でお釣りなしの逆転満塁サヨナラホームランを放つなど打ちまくり、打率.351のハイアベレージで首位打者に輝いた。79年のF・ミヤーンに続く球団2人目の栄冠である。しかしこれには、シーズン最終戦となった大洋-中日戦を長崎さんが欠場し、打率1厘差に迫る中日の田尾安志を5連続敬遠したという側面がある。しかもこの試合、中日が勝つか引き分けで中日優勝、負ければ巨人優勝となる大一番だったことで、大洋が勝ちよりも長崎さんのタイトルを優先し、相手の一番打者を全打席出塁させたことに批判の声が多く挙がったのだ。

「あの件では嫌な思いもしたけど、オフの表彰式で王貞治さんに田尾君と2人で呼ばれてこう言われたんです。“田尾君が長崎君に勝つには、最後の大洋戦の前に抜かないといけなかった。だから長崎君はタイトルを誇っていいんだ”って。これですっきりしましたね。田尾君も納得していたし、その後阪神で同僚になる訳ですが、わだかまりもなく普通に麻雀していましたから(笑)。あと、あの試合前に中日の黒江透修コーチに呼ばれて冗談交じりに“首位打者はお前にやるから田尾を歩かせてくれよ”と耳打ちされた。その時は自軍の選手がタイトルを獲れるかどうかの瀬戸際に何を言うのかと不思議だったけど、後に阪神で優勝を経験して黒江さんの真意がようやく分かったんです。個人記録は二の次で、あくまで優勝するのが一番なんだと。当時の僕にはその価値が理解できなかった」

 すでに5位が決定している状況からすれば、せめて個人タイトルだけでも、と手が届きかけている選手をアシストするのは自然な流れである。そして、当時の大洋は毎年Bクラスが定位置だった。そういうことなのだ。