第一京浜にかかる歩道橋を渡ると大行列ができている。まさかと思いながら最後尾を探すものの、なかなか見つからない。住宅街の中まで入り込んでやっと列に並ぶことができたが、今度は牛歩の如く進まない。2000年3月26日、天気は快晴。今日は川崎球場最後のプロ野球、横浜対千葉ロッテのオープン戦が行われる。僕は前後の人と「こりゃ当分入れないっすねー」なんて話しながら入場列が進むのを待っていた。

 大洋ホエールズの1977年までの本拠地、川崎球場。その頃の記憶はまったくないけど、ロッテのフランチャイズ時代はオリオンズこども会会員の友達と何度か観に行った。京浜川崎駅で降り、小美屋デパートの前から市役所通りをひたすら歩く。教育文化会館の角を曲がると球場があるが、そこは市営の富士見球場。川崎球場はその裏側に立っていた。ここまで駅から20分弱。普段通う横浜スタジアムと比べるとこっちはいかにも古臭く、照明も薄暗い。昭和のボロい球場の代名詞としてさんざんネタにされて来た通り、どこをとっても綺麗とは言えない。

小学生の財布に優しい球場だった

 しかしここは外野入場券がこども300円だし、なぜだかいつも招待券が回ってくるので小学生の財布に優しい球場だった。またロッテだけあってお菓子の詰め合わせやビックリマンシールのプレゼントデーがあるのも嬉しかった。そして何より、数年前までここでオレンジのユニフォームを着てルーキー時代の齊藤明雄が投げ、プリンス山下大輔が遊撃手の守備記録を打ち立て、若き日の田代富雄や高木由一が快打を放っていた。ホエールズの前の住処というだけで、川崎球場は特別な場所なのだ。たまにテレビの懐かし映像で76年に王貞治が川崎で放った700本塁打達成シーンが流れると、一瞬映る大洋のユニフォームを食い入るように見た。

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小学生の財布に優しかった川崎球場

 しかし大洋が半ば一方的に本拠地を川崎から横浜に移し、54万人分の移転反対署名が集まり、喧々諤々の末ロッテの本拠地に決まったことから、その後ホエールズと川崎球場は疎遠になってしまう。そのあたりの経緯を中学生の頃、図書館にある神奈川新聞のバックナンバーで調べていたら、横浜移転1年目の78年、意外にも大洋が川崎で公式戦2試合を主催していたことを知った。だが6月の中日戦は4本塁打を浴びて4対9、7月18日ヤクルト戦は実に5本塁打を食らい6対9で負けている。翌19日の神奈川新聞にはマリンブルーのYOKOHAMAユニフォームで川崎の荒れたグラウンドを歩く別当薫とうなだれた平松政次の写真が載り、寸評には「鬼門の川崎」と書かれている。その写真と記事が後々になっても頭に残っていた。その後、オープン戦ではビジターチームとして川崎でロッテと対戦しているが、79年以降に大洋が川崎で主催試合を行うことは二度となかった。

 チーム名がベイスターズに変わった93年、なぜか8月に川崎で公式戦1試合(対阪神)が組まれた。観たいと思っていたもののあいにく雨天中止となり、振替日程は横浜スタジアム開催になった。翌94年3月にも対日本ハムの主催オープン戦が行われたが大学入学前で慌ただしく、翌日の新聞でその事実を知った。「川崎でホームチームとして試合するベイスターズ」を観ることはなかなか叶わなかった。