ラグビーにある「良き敗者」を生む仕組み
英国の私立寄宿学校・ラグビー校で確立されたラグビーは、フィールド上のルールだけでなく、周辺文化も保持しながらゆっくりと世界に普及した。試合後の両チームによるパーティーであるアフター・マッチ・ファンクションを重視するなど社交の要素が強いのは、英国の特権階級がたしなんだ競技ならではだ。だが時代と階級を超えて社交の精神が伝わったことで、競争が優先される現代スポーツ界に「良き敗者」を生み出すシステムになった。
私は学生時代、剣道部に所属していた。小学4年から大学まで13年間、試合場で敗戦を嘆く大げさな仕草を目にしたことはなかった。これは剣道選手が特別な人格だということではない。剣道にはルールブックに付随して「剣道試合・審判運営要領」というものがあり、その中の「終了」の項目が試合の終え方を定めている。中段の構えから蹲踞(そんきょ)して竹刀を納めることや、立ち上がって帯刀の姿勢で立礼の位置まで下がること、礼をするときは帯刀の位置より竹刀を下ろすことなどが細かく記されている。
要は試合直後に敗戦を嘆く自由がないのだ。そしてこれだけの所作を済ませた後では、泣きじゃくるより、静かに反省することになる。「形」が感情をコントロールし、良き敗者を生むシステムとなっている。
悲惨な負け方を繰り返していた私は、剣道の決まり事に縛られていなかったら、床に倒れこんで泣いていたかもしれない。剣道が持つシステムによって尊厳を持って敗戦に向き合えたのだと思う。
高校野球に、もし整列と校歌斉唱がなかったら、どこまで悲劇の“劇場”が続くのだろうと思うことがある。敗戦を堂々と受け止めるよう選手を導くには、子ども時代から試合後の所作を身に付ける教育が必要で、剣道ほどがんじがらめにしないにしても、ある程度の決まり事はあった方が良い。敗戦を嘆いても何も生まれない。敗戦を何につなげるかは各自に委ねられていて、少年スポーツはその土台を提供しなくてはならない。
堂々たる敗者
この夏、琉球朝日放送の取材による沖縄・興南高野球部のドキュメンタリー映像を見た。同校の我喜屋優監督は、選手を前に「甲子園大会が終わって敗戦のヒーローのごとく泣きじゃくる選手を見た時にとてもがっかりする」と話し、「勝とうが負けようが前を向いて」と静かに語り掛けていた。
興南高は地方大会の決勝で延長13回を戦い、沖縄尚学高に敗れた。選手は表情を崩すことなく整列し、勝者を握手で称え、涙はロッカーに戻って流した。そして球場の外で沖縄尚学高を待ち受け、笑顔でエールを送り、2チーム合同で記念写真に収まったのだった。
2010年に甲子園大会で春夏連覇を果たした興南高の強さは、敗戦に正対するこういった姿勢と無関係ではあるまい。高校球界にこういうチームがあることを記しておきたい。ラグビーのスコットランド代表に比肩する堂々とした所作だった。