21年前のきょう、1996年2月27日、任天堂が、携帯型ゲーム機「ゲームボーイ」向けソフト『ポケットモンスター』の「赤」と「緑」を発売した。税抜価格は各3900円。その後、カードゲームやアニメ、また昨年大ブームとなったスマートフォン用ゲーム『ポケモンGO』などさまざまな展開を見ることになる「ポケモン」の、これがデビューだった。

『ポケモン』の企画は、1990年にゲーム制作会社「ゲームフリーク」社長の田尻智(当時25歳)が、ゲームボーイの通信機能を使ったゲームを任天堂に提案したことに始まる。それは、自分のゲームボーイのなかにいるモンスターを、ほかのプレイヤーのモンスターと交換するというものだった。ここからさっそく開発が始まったものの、いかに「交換」という行為を面白くするか、そのためのストーリーがなかなか定まらず、一時中断する。

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 再開したのは1994年。任天堂とゲームフリーク、ゲーム企画会社「クリーチャーズ」でチームを組み、アイデアを出し合うなかで、ポケモンを対戦しながら捕まえ、育てるというストーリーがまとまっていった。交換を促すため、自分のポケモンをほかのプレイヤーに預けることで、ちょっと早く育ったり、強くなったりするという仕掛けも生まれる。発売時に「赤」と「緑」の2種類が用意されたのも、ポケモンを交換するには自分と相手のカセットが違っていなければ面白くないということで、象徴的に色を変えたためだ(畠山けんじ・久保雅一『ポケモン・ストーリー』日経BP社)。技術やコストの面でも難題は多かったが、一つひとつクリアして、発売へとこぎつけた。

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 初回出荷本数は23万本と、ささやかなものだった。そもそも業界やメディアの関心は、このころ64ビットの次世代ゲーム機に移っており、ゲームボーイはもう終わりとの見方が強かった。しかし小学館の子供向けコミック誌『コロコロコミック』での特集記事やマンガ化の効果もあり、『ポケモン』の売り上げはしだいに伸びていく。同誌で幻のポケモンをプレゼントすることになったときには、応募ハガキが殺到した。ここからブームに火がつく。96年9月には累計出荷本数100万本を突破。翌97年4月にはテレビアニメの放送も始まり、ポケモンのブームは拡大していく。

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『ポケモン』が発売された翌月には、ゲームボーイ用の通信ケーブルが急速に売れ出したという。交換に重点を置いたコンセプトに、子供たちは敏感に反応したのだ。『ポケモン』を企画したとき、田尻智のなかには「いつも現実の生活のなかにゲームはある」という考えがあった。それはいまや、多くの人たちが移動中や寝る前など空き時間を見つけてはスマートフォンでゲームを楽しむという形で、ごく日常的な風景となっている。