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どんな罪でも懺悔告解すれば基本的には赦される

 ローマ・カトリックは罪の懺悔告解のシステムを高度に発展させてきた。どんな罪でも自分で告白して悔悟の念を示しさえすれば基本的には赦される。告解は、第二ヴァティカン公会議まではラテン語で「mea culpa」(メア・クルパ 私の過ちなり)と言って胸を叩くことから始まっていた。告解の後で、司祭は罪障消滅を宣言してやる。もっともそれぞれの罪の軽重によって、祈りや断食などの贖罪行為が要求されるし、たとえ神の名によって司祭から罪を赦されたとしても、世俗の法廷で裁かれ直して刑に服する場合もある。しかしカトリックの伝統の中で、ともかく罪を告白しさえすれば、霊的には浄められ、良心に恥じるところがなくなるという認識には大きなウェイトがおかれていた。

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 その背景には「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら彼をいさめなさい。そして悔い改めたらゆるしてやりなさい。もしあなたに対して1日に7度罪を犯し、そして7度『悔い改めます』といってあなたのところへ帰ってくればゆるしてやるがよい」(ルカ17-3、4。以下、引用は日本聖書協会発行『口語訳聖書』より)というイエスの言葉がある。またペトロが罪は7回までゆるせるのかときいたとき、イエスは「7度を70倍するまで」とも答えている(マタイ18‐22)。その上、何といっても、その第一弟子のペトロ(ペテロ)、初代ローマ法王であるペトロ自身がイエスを裏切ってしまった。イエスが捕らわれた夜に、係わりあいを恐れて、鶏が鳴くまでに3度も、「イエスを知らない」と偽ったのだ。イエスを裏切ったことを恥じ、悔いたペトロが、復活したイエスにゆるされた、というエピソードがキリスト教信仰の出発点になったことも大いに関係しているだろう。

土下座するほど尊敬される「謝罪外交」

 つまり、謝罪することで神に対して恥じるところがなくなるという了解があるので、ローマ法王は、謝罪外交をして各国に土下座して回っても決して侮られないどころか尊敬すらされるのだ。実際、ヨハネ=パウロ2世は行く先々の国で、空港に降り立つとまずその国の地面にひれ伏して大地に接吻するという儀式をしていた(老齢と健康上の理由でその姿勢が無理になってからはわざわざ接吻用の土を盆の中に用意しておいてもらっていた)。ローマ法王の謝罪や謙遜はそのまま神の祝福につながるのである。

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訪問先のタイで歓迎されるローマ法王 ©AFLO

 もちろん自らも、1981年の暗殺未遂事件の犯人を獄舎に訪ねて罪の赦しを宣言したように、率先して「赦し」を実践している。謝罪と謙遜は、加害者と被害者の間の互いの潜在的な赦しあいを前提としているからこそ、積極的で効果的な使徒的使命の一環と認められているのだ。

 このように、ある倫理に基づいて確固たる態度をとることは、外交における謝罪問題でいつも内外ともに戦々兢々としている日本の政治家などが一度深く考えれば役に立つのではないだろうか。ローマ法王ウォッチングはいろいろな意味で実に示唆に富んで興味深いといえるだろう。

ローマ法王 (角川ソフィア文庫)

竹下 節子

KADOKAWA

2019年10月24日 発売