11月23日、ローマ法王フランシスコが来日を果たした。ローマ法王の来日は前回のヨハネ=パウロ2世以来、実に38年ぶり。滞在中は長崎や広島を訪問し、天皇陛下や安倍首相とも面会する予定で、最終日の26日まで綿密な予定が組まれている。とはいえ、ローマ法王は日本人にとってはあまり馴染みのない存在。そもそもどのような役割を担っているのか、疑問に思う人も多いのではないだろうか。そこで、比較文化史家の竹下節子氏による『ローマ法王』(角川ソフィア文庫)より、序章「ローマ法王とはだれか」の一部を抜粋してお送りする。
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全世界に億単位の信者を有し、1人の首長を戴く教派としては世界最大を誇るローマ・カトリックの首長であるローマ法王は、生き神のように絶対の正義、絶対の真理を擁していると見なされているのだろうか。答えは否である。それどころか、(1998年当時)法王の座について20年以上になろうとしていた法王ヨハネ=パウロ(ヨハネス=パウルス)2世が、公式の文書で何と94回もカトリック教会の非を認めている。そのうちの24の文書は「私は赦しを請う」という言い回しを含んでいる。そのテーマは教会が犯したと思われる人種差別、性差別、暴力など多岐にわたっている。特に1994年の春からは2000年紀の最後に向けての教会の反省の姿勢が強くなった。
ローマ法王が“謝罪”を始めたのはいつから?
自ら過ちを認めて謝罪するという行為はヨハネ=パウロ2世が始めたことではない。ヨハネ(ヨハネス)23世は戦後ユダヤ人やイスラム教徒を攻撃する祈りの文句を修正したし、その後のパウロ(パウルス)6世は1963年の第二ヴァティカン公会議の第二セッション開会の辞でカトリック以外のキリスト教諸派を「別れた兄弟たち」と呼んで、それまでの異端糾弾の歴史を謝罪した。
もっとも、それ以前に法王が謝罪した例はというと1523年のハドリアヌス6世に溯る。プロテスタントが、堕落したカトリック教会の非を唱えて反旗を翻した宗教改革の時代だった。法王は法王庁内の醜聞を認めて、それらを一掃するよう努力することを言明した。その態度がその後のカトリック内部の改革を可能にしたのだ。
ナチス政権に非を唱えられなかった過去
権力者が自らの非を認めたり一国が歴史上の過ちを認めて謝罪したりするという行為はいつも非常な困難をともなっているものだが、今のカトリック教会は驚くべき熱心さでそれをしている。第二次大戦中のナチスによるユダヤ人虐殺にカトリック教会が沈黙していたことに対する謝罪はその代表的なものだろう。当時のカトリック教会は、特に宗教を弾圧した新興ソヴィエトの共産主義勢力を恐れるあまり、ソヴィエトへの盾ともなるナチス政権に積極的に非を唱えなかった。ドイツ国内のカトリック弾圧を招かぬための保身でもある。
とはいっても個別教会のレベルでの態度表明はあった。オランダのカトリック教会とプロテスタント教会は1942年にナチス批判の立場をとった。しかしオランダのユダヤ人の92パーセントが殺されたという結果は変わらず、もっと積極的な戦いをすべきではなかったかという反省が1995年に発表された。
ドイツでも神学者カール・バルトに代表される反ナチスのプロテスタント教会が存在した。しかしナチスの意向を汲んだ国家主義の教会が勢力をもち、戦後の1945年には他の教会に対して過ちを認める宣言をしている。個人では、ベルリン大聖堂のリヒテンベルク参事会長がナチスの政策を攻撃し、その功績で1996年に法王から福者(聖人になる前段階)の列に加えられたことも今のカトリックの立場表明であろう。ドイツのカトリック教会は1945年の6月に、ユダヤ人虐殺は悲劇であったとコメントしたが、ナチスの犯罪に対して沈黙したことについての悔悟を正式に発表したのは1975年のことだ(ヴァティカンがイスラエルを国家として認めたのは1993年である)。