室町時代の文正2年1月18日の明け方、去る6日に将軍・足利義政により管領(室町幕府における政務の最高責任者)を罷免された畠山政長が、京都・将軍御所の北東にある上御霊社(かみごりょうしゃ。現在の御霊神社)に陣をとった。この日は西暦(グレゴリオ暦)でいえば1467年3月3日で、いまからちょうど550年前のきょうにあたる。日本史を大きく画したともいわれる応仁の乱(応仁・文明の乱)は、いままさに始まろうとしていた。
畠山家は細川氏・斯波氏と並び管領職を認められた三家のひとつで、政長は長らく、従兄弟にあたる畠山義就(よしひろ)と家督争いを続けていた。最初に家督を継いだのは義就だが、家臣の造反で都を追われる。しかしその後も復権をめざし、たびたび軍勢を率いては上洛、この年正月にはついに将軍・義政の支持を得た。失脚した政長は前日の1月17日夜、屋敷に自ら火を放ち京都を出ると見せかけて、御所をうかがう地点に陣取ったのである。
畠山義就のバックには実力者・山名宗全がつき、義就復権に乗じてクーデターをくわだてる。これに対し、畠山政長には、長らく幕政を動かしてきた細川勝元がついた。合戦に巻きこまれることを恐れた足利義政は、山名・細川に対し両畠山への軍事介入を禁じる。だが、山名はこの日夕刻、政長の陣を攻めた義就軍に加勢、一気に政権を奪取してしまう。一方の細川は手を出せず、政長を見捨てた形になり、世間の評判を落とした。
「御霊合戦」と呼ばれるこの戦いは凶事とされ、それが起きた文正という元号は縁起が悪いということから、3月5日(グレゴリオ暦では4月18日)には応仁と改元される。だが、このあと戦いは、将軍家の後継問題などもからみ、大乱へと発展していく。
昨年には気鋭の歴史学者・呉座勇一が『応仁の乱』(中公新書)を著し、目下、累計18万部を刷るベストセラーとなっている。応仁の乱をめぐる人間関係はじつに複雑でややこしいが、そこを手際よく整理し、各勢力の動向を活写してみせたのが勝因だろう。
応仁の乱といえば、1994年のNHK大河ドラマ『花の乱』も思い出される。脚本の市川森一は執筆に際し、300巻を超える『大日本史料』を700万円を投じて購入し、意気込みを見せたという(鈴木嘉一『大河ドラマの50年 放送文化の中の歴史ドラマ』中央公論新社)。このとき将軍・義政には市川團十郎(12代目)、その妻で主役の日野富子には三田佳子を起用。また若き日の将軍夫妻を、團十郎の息子の市川新之助(現・海老蔵)と松たか子(いずれも当時16歳)が演じた。ほかにも山名宗全役の萬屋錦之介、細川勝元役の野村萬斎、一休宗純役の奥田瑛二らの演技も印象深い。平均視聴率は14.1%と当時の歴代最下位を記録した同作だが、『応仁の乱』のまえがきで著者が「ドラマとしては良くできていたので、何とも気の毒であった」と書いているのを読むと、また観返してみたくなる。