忙しくても1分で名著に出会える『1分書評』をお届けします。
今日は尾崎世界観さん。
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「お前も口の中に入れて舐めてみな、美味いよ」
ケンジ君が口の中に百円玉を二枚放り込んで、音を立てて舐めながら、とても美味そうに口を動かして目を細めている。
ようやく手にした貴重な小遣いに対する、ケンジ君の精一杯の愛情表現に感銘を受けて、慌ててポケットから取り出した百円玉を口に放り込んだ。痺れる様な鉄の感触と臭いが舌を刺激して、思わず顔が歪む。
「お前、一枚しか入れてないだろ」と言いながら、ケンジ君は鼠の様に口から突き出した前歯を見せて嫌らしく笑った。
もう一枚の百円玉を探して、ポケットの中に手を突っ込んでみたものの、行き場の無い手で糸くずを掴んだだけだった。
「二枚口の中に入れて舐めないと今日はもうお前と遊ばないよ」と言ったケンジ君はもう笑っていなかった。
「お前の家は貧乏なの?」と言われてからすぐに、薄暗くて汚いケンジ君の家の饐えた臭いを思い出した。茶色く変色して、大きな穴の空いた襖の奥で、いつも死んだ様に寝ているケンジ君の父親と、黄色くて所々黒ずんだ酸っぱいリンゴを剥いて出してくれた、ケンジ君のおばぁちゃんのミイラみたいな手を思い出した。
「絶対にお前の家の方が貧乏だよ」と言い返そうとしたけれど、まだ口の中に入ったままの大事な百円玉を飲み込んでしまいそうで、やめた。
この小説を読んで、こんな事を思い出した。
憎しみというのは、飴玉とは違って、溶けずにいつまでも口の中に残っていたあの日の百円玉の様だ。
綿矢さんの作品は全部読んでいる。大好きです。