【慈尊院】信繁が祭り見物に来ていたと思われる高野山への玄関口
慈尊院は、弘仁7年(816)、弘法大師・空海が高野山開創の折に、高野山参詣の表玄関として創建された。高野山一山の庶務を司る政所を設置し、高野山への宿所ならびに冬期避寒修行の場としたのが始まりだとされている。
ある時、空海の母・玉依御前(たまよりごぜん)が香川県善通寺から、我が子の開いている山を一目見てみたいと、高齢を押して高野山に登ろうとした。しかし、当時、空海自から高野山上から七里(28km)四方を女人禁制としていたので、高野山山麓にある慈尊院に逗留し、慈尊院のご本尊である弥勒菩薩を厚く崇拝した。空海は母に会うために必ず月に9度は高野山上から20数キロもの山道を下って慈尊院に来ていたことから、この地が「九度山」と称されるようになったと言われている。
玉依御前が死去すると、空海の夢に弥勒菩薩となった母が現れたので、廟堂を建立して自作の弥勒仏と母の霊を安置した。慈尊とは弥勒菩薩の別名で、以後、表向きに「慈尊院」と呼ばれるようになった。このエピソードに加えて、女性の高野参りが許されていたのは慈尊院までで、そこから先の山へは入れなかったということもあり、多くの女性が子宝、安産、育児、授乳などを願って乳房型絵馬を奉納して祈願したり、髪の毛をおそなえして病気平癒を祈った。これが「女人高野」と呼ばれる由縁となった。
この慈尊院には高坊、亀岡、田所ら高野山領の荘園を管理していた旧官省符荘の四荘官や、高野政所の別当家を称していた中橋家などがおり、信繁と親交を深めた。ちなみに信繁が九度山を脱出する際、高坊常敏、亀岡帥、田所庄左衛門、中橋長成らは随行し、一緒に大坂入城を果たしたことが『高野春秋編年輯録』に記載されている。それだけ親密な仲だったので、慈尊院で開催されていた官省符祭りという荘園の祭りを信繁が見物していた可能性は十分にあるだろう。
ちなみに慈尊院の住職・安念清邦氏によると、空海の母は慈尊院(当時は三宝院)でどぶろくを作り、「高野山はさぞかし寒いでしょうから薬として召し上がってください」と空海に献上していた。密教の聖地・高野山で昔からお酒が飲めるのはこれが発端で、そのどぶろく目当てに、昌幸が慈尊院にたびたび来ていたという伝承があるという。創作、伝説の域を出ないが、酒好きだった昌幸ならさもありなんと思わせるところにおもしろみがある。
慈尊院
所在地:和歌山県伊都郡九度山町慈尊院832
連絡先:0736-54-2214
アクセス:南海高野線「九度山駅」から徒歩20分
南海高野線・JR「橋本駅」、JR「妙寺駅」よりアクセスバス臨時運行