【丹生都比売神社】信繁が見物の誘いを断った蓮華会の開催場所

1700年以上も前に創建されたと伝えられている丹生都比売神社。現在の本殿は室町時代に復興され、一間社春日造りでは日本一の規模を誇り、境内は「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界文化遺産にも登録されている。全国の丹生神社、丹生都比売大神を祀る神社の総本社でもある

 連載第11回でも紹介したが、蓮華定院には信繁が出した書状がいくつか残されている。その中の1つに、丹生都比売神社で開催される「蓮華会」に参加できない旨をしたためた書状がある。

蓮華定院に残っている、信繁が蓮華定院の僧侶に出した書状。地元の歴史家の岩倉氏の見立てでは慶長18、19年頃のもの

 この時代、高野山の修行僧たちは葛城山や熊野への入峰修行を行っていた。そのルートは丹生都比売神社→葛城山中→吉野山→大峰山→熊野→葛城山中四十九院→丹生都比売神社。最後に修行の完遂を神に報告する儀式として、旧暦の6月14~19日の日程で丹生都比売神社で行われていたのが蓮華会である。祭礼の中心は6月18日の御渡り、猿楽だった。

 この蓮華会に参加するため、蓮華定院のたくさんの僧が丹生都比売神社に逗留していた。彼らは信繁と深い親交があったため、信繁も見物の誘いを受けていた。しかし、この時信繁は腹痛を起こしたため、出席したいけどできないと断りの書状を出した。それが蓮華定院に残されている書状である。この時はたまたま腹痛で参加できなかったが、体調に問題がない年は見物に来ていたのかもしれない。丹生都比売神社の境内を歩いていると、そんな在りし日の信繁の姿が脳裏に浮かんでくる。

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丹生都比売神社の境内にある大峯修験者の碑
光明真言曼荼羅碑

 丹生都比売神社の境内には大峯修験者の碑が建てられている。高い石柱の4基は大峯修験者(山伏)が、大峯入峯に際し建てたもの。元々は神社の輪橋を渡ったところに建てられていたが、明治の神仏分離により現在の場所に移された。

 寛文2年(1662)に建立の光明真言曼荼羅碑。正面の円形の部分に中央下から、時計の針の進む方向に、梵字で光明真言が刻まれている(背面には多くの僧名が刻まれている)。この頃から光明真言講が形成され、この形の碑が建てられるようになった。

 これらの石碑の前に立つだけで、自然と敬虔な気持ちになる。

丹生都比売神社
所在地:和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野230

取材協力/岩倉哲夫氏、九度山町産業振興課真田丸推進室