「これは何のために造られたと思いますか」。吉井惠璃子(えりこ)さん(54)がいたずらっぽく笑う。指差した先には石垣がそびえていた。背丈の二倍以上はあろうか、上になるほど反り返る「武者返し」の形をしていて、まるで熊本城の城壁のようだ。
「防風壁です。この集落は谷筋にあるので、山から吹き下ろす風が強く、風を防ぐ石垣を持つ家があるのです。六方積みと言って、どの石にも六つの石が接するように積まれています。堅牢なんですよ。熊本地震でもびくともしませんでした」
「海のまち」と思われがちな熊本県水俣市だが、実は市域の四分の三を森林が占めており、「山村」の側面を併せ持つ。なかでも中小場(なかこば)は、市内で最も山深い集落の一つだろう。中心街から二十キロメートルほど離れていて、約二十世帯の五十人弱が住んでいるだけだ。吉井さんはここに嫁入りして二十六年目。農林業のかたわら小説やエッセイを書いており、市が主導して始めた「村丸ごと生活博物館」では「生活学芸員」として集落を案内している。
「生活博物館」は建物や田畑といった目に見えるものだけでなく、地域に根ざした仕事や家庭料理なども含め、生活の全てを展示物に見立てた“屋根のない博物館”だ。同市独自の施策で二〇〇二年に始まった。これまでに四地区が指定されている。
指定された地区では、市が住民の中から「生活学芸員」や「生活職人」を認定する。生活学芸員は集落の案内人で、四地区で計三十八人が選ばれている。生活職人は石積み、イノシシ狩り、山菜取りなどの熟練者に加え、漬物、味噌、煮しめ、団子といった郷土料理が得意な人が選ばれていて、集落を訪れる人の体験活動を手伝う。計五十八人がリストに載っている。
市に申し込めば、希望の地区で生活学芸員に案内してもらう「村めぐり」(五人まで五千円など)、生活職人の料理を食べる「食めぐり」(一人千五百~二千円)、昔ながらの技術を体験する「わざめぐり」(五人で五千円など)ができる。
この事業は特異だ。生活博物館に指定されたら「ここには何もない」と言ってはならない。
私は田舎と呼ばれる地域をよく訪れるが、必ず耳にするのが「ここには何もない」という自嘲的な言葉だ。だから地域に元気がなくなっても仕方がない。人口が減るのは当然だと続く。本当にそうなのか。住んでいる人には「普通」でも、外から見ると驚くようなことが結構ある。そうした地域の魅力を訪問者の目を借りて発見しよう。「あるもの探し」で元気になろうというのが生活博物館の肝だ。その結果、集落にどんな変化が起きたのか――。
吉井さんの住む中小場は、車なら十秒ほどで通り過ぎてしまうような集落だ。石積みの棚田が美しくはあるものの、特段印象に残るような土地ではない。もう一つ奥に、大川という地区があるだけで、どんづまりの山奥と言っていいだろう。大川とは一九九九年に閉校した分校の同じ校区だった。このため生活博物館には〇五年、一緒に指定された。
生活学芸員になった吉井さんは、「あるもの」を探して歩いた。するといろんなものが見えてきた。そのうちの一つが石垣の防風壁で、ひと際見事なのが中村ヨシコさん(93)が独りで住む家だった。
「終戦の三年後に家を建てた時に、集落の皆で造ってくれたんです」と中村さんは振り返る。「この辺の人は多くが石積みの技術を持っていました。亡くなった夫もほら、そこの水路に石を敷きつめて、豪雨の時に土が持っていかれないようにしたんです」と話す。家の裏には、苔むして美しい石積みの水路がある。
吉井さんは、中村さん宅で他にも「生活の知恵」を見つけた。物置の梁は真っ直ぐな材木に加えて、その下にもう一本、緩やかに曲がった材木が渡してある。まるで橋梁のアーチ構造のようだ。「風が強い地区だからこのようにしたのでしょうか。こうすると曲がった木が役に立つんですね」と吉井さんは驚く。
牛を飼っていた場所には、普通なら使い物にならないほど湾曲した材木が取り付けられている。そうすることで半円形の「窓」ができ、牛が餌を食べる時に、ちょうど顔が出せるようになっている。
事業の開始以降、特に元気になったのは女性だった。研究や研修、田舎暮らしへの興味から、国内だけでなく、海外からも人が訪れる。そうした人々が、家族に食べさせるだけだった田舎料理を「美味しい」とほめてくれたのだ。「自信が出てきて、祭の復活につながったのです」と吉井さんが目を輝かせる。
中小場には鎌倉時代の作と伝わる十一面観音像がある。安置する観音堂では毎年、祭が行われていた。この日は、集落の約二十軒が持ち回りで料理を振る舞ってきたのだが、「高齢化で食事が出せない」という声が出て、祭をやめてしまった。吉井さんの調べでは、中小場の女性の平均年齢は約八十歳である。
ところが一〇年、「普通の田舎料理をよその人に出して喜ばれているのに、集落で食べる料理ができないわけがない」と祭が復活した。
「観音堂の近くには、山の神様もあります。そこの祭も存続が問題になっていたのですが、赤飯や豚汁などを持ち寄って続けようという話になりました」と吉井さんは微笑む。
さらに、竹かごを使う生活にも「誇り」が生まれた。