職人の集落で竹かごが息づく
中小場には竹細工職人、井上克彦さん(47)が住んでいる。国際協力機構職員だった井上さんは九九年、神奈川県から水俣市中心部の職人に弟子入りした。三年後に独立。竹を浸けておく作業に必要な清流がある中小場に移り住んだのだが、この集落では偶然にも、生活の中に竹かごが息づいていた。
「そもそも水俣では竹かごを使う人が多かったようです。弟子入りする前、職人を探して西日本一帯を回りました。あの頃、市町村に一人いればいい方だったのに、水俣には三人もいました。公害があったせいで、安易な経済発展に踏み出さない人が多かったからかもしれません」と井上さんは語る。かごの材料として竹に取って替わるプラスチックには、公害の原因企業・チッソの製品が原料として使われていた。
石垣の家に住む中村さんは、竹かごを愛用してきた一人だ。畑作業に出る時の背負いかごや、料理に使うざるなど、何種類も使っている。井上さんが越して来て間もなく夫が亡くなったので、香典返しにざるを編んでもらって配ったこともある。
そんな中小場で生活博物館が始まり、来訪者が竹かごのある生活に驚き、ほめたたえた。集落の人々は意識して竹かごを使うようになった。井上さんは時々、集落の人に修理を頼まれる。「直せば何代も使えます。皆が自分の暮らしに価値を見いだしたのです」と言う。
竹かごを普通に使う集落で、職人が暮らす。今の日本にこのような集落はあるだろうか。
他の指定地区もどんづまりのような山奥ばかりで、将来への不安から事業に乗り出した。しかしそうした地区だからこそ、失われた「日本」がまだ残っていた。「誰も来なかったのに、外国人まで来てくれる。自分の暮らしが誇らしくなった」「集落名を言うのが恥ずかしかったが、胸を張って言えるようになった」と人々は言う。一年に七百人以上が訪れた地区もある。四地区合わせた来訪者は一五年度までの十四年間で、九千三百五十六人に及んだ。
だが、指定時に元気だった集落の人々が高齢化し、近年急速に活動が鈍っている。市も「地域の自立」を名目に、来訪希望者の受付以外は関与を弱めているので、認定した生活学芸員や生活職人は初期から更新していない。亡くなった人まで名簿に載っている始末だ。一五年度は百七十九人の来訪しかなかった。今も状況は変わらない。
ところがここ数年、「あるもの探し」が市街にも広がり始めた。
市中心部で菓子店「モンブランフジヤ」を経営する笹原和明さん(43)は、最初に生活博物館に指定された頭石(かぐめいし)集落の栗を使っている。
笹原さんは栗菓子が嫌いだった。著名な産地から栗を仕入れると、変色を抑えて黄色く発色させるのに薬品に浸けるので、「炊くと缶詰の味がしていた」からだ。しかし、市が生活博物館に熱心に取り組んでいた頃の担当職員、冨吉正一郎さん(37)=市図書館勤務=の案内で頭石を訪れた時、落ちたままになっている栗を見てひらめいた。
「集落の人に頼んで、皮をむき、湧水に浸けて送ってもらおう」。頭石は湧水の豊富な集落だ。
頭石の栗は「子供の頃に運動会で食べた懐かしい味」がした。菓子にすると評判を呼んだ。今では看板商品のロールケーキ「フジヤロール」や焼き菓子に使っており、欠かせない素材になっている。
水は全て頭石の湧水に変えた。他にも紅茶、無農薬レモン果汁……、「あるもの探しをすると、水俣には多くの『本物』がありました。素材はほぼ地元産になり、売り上げは倍以上に増えました」と話す。
笹原さんが代表を務める水俣中央商店街では、頭石の栗を原料にした焼酎や、湧水を使ったサイダーも開発して売り出している。
冨吉さんが働く図書館は、環境をテーマにした絵本を隔年で募集し、大賞作品を出版している。このため市民に物語や詩を書く力を養ってもらうワークショップを開いているのだが、市内の湧水巡りをしたり、民話を学んだり、水俣港の海鳥の話を漁業関係者から聞いたりして、題材にしてきた。「水俣に『あるもの』から物語が生まれます。子供達には特に人気で、一六年度は百五十人以上が受講しました。こうした体験をした子はどんな大人になるんでしょうね」。冨吉さんは目を細める。
公害の歴史を背負った水俣。不幸を拡大させたのは、当の市民が公害についてあまり知ろうとせず、患者、チッソ社員、関係のない住民など、立場によって考え方の違いが生じたせいだった。ならば自分達で調べ、知ることから再生を始めよう。「あるもの探し」は、反省から生まれた施策の一つでもあった。
発案した元市職員、吉本哲郎さん(68)はこうして足元から見つめ直す手法を「地元学」と呼んでいる。
あなたの「地元」には何があるだろうか。そこから何が再生でき、どんな元気が生まれるだろうか。