いまから30年前のきょう、1987年3月17日、アサヒビールから新製品「アサヒスーパードライ」が、まず首都圏限定で発売された。従来の日本のビールが苦みの強いものばかりだったのに対し、スーパードライは発酵度を高く設定して辛口にし、キレに徹した点が特徴だった。
スーパードライの登場の背景には、日本人の食生活の変化がある。アサヒビールの行なった消費者嗜好調査では、肉など脂分の多い食事にも合うビールが、若い世代を中心に求められていることがわかった。同社は86年2月に、コクがあってキレもある新「アサヒ生ビール」(通称「コクキレビール」)を発売し、好評を得ていた。これに対してスーパードライは、さらに味をクリアにして、20代~30代にターゲットを絞りこむというコンセプトのもと開発が進められる。
当初はコクキレビールとのバッティングを避けて、地域限定で発売されたスーパードライだが、すぐに全国展開されるようになった。初年度には1350万箱と、ビールの新製品の売り上げ記録を更新する。これを追う形で、翌88年には他社もあいついでドライビールを発売し、熾烈な競争が始まる。スーパードライのヒットから、このころ経営不振に陥っていたアサヒは息を吹き返した。また、「ドライ戦争」と呼ばれた商戦の激化により、ビール市場全体も拡大していく。スーパードライ発売前の86年と90年を比較すれば、市場は32%の拡大となった(永井隆『ビール15年戦争』日経ビジネス人文庫)。
スーパードライといえば、国際ジャーナリストの落合信彦を起用したテレビCMも印象深い。当時、一般的には落合の知名度はけっして高くなかった。だが、手垢がついておらず、しかも商品コンセプトである「ドライ・アンド・ハード」というイメージに合致したことから起用が決まる。落合も、アサヒ側の「業界トップのキリンを追い抜きたい。勝負をかけたビールだ」との説得に感じ入り快諾。以後、自分の出た広告に対する責任感から、宣伝課長に毎月電話をかけては、スーパードライの売り上げを確認していたという(飯塚昭男『アサヒビール・大逆転の発想――真の経営革新とは何か』扶桑社)。余談ながら、落合の子息で、現在メディアアーティストとして活躍する落合陽一はちょうどこの年、1987年に生まれている。