江戸時代前期の元禄16年2月4日、赤穂浅野家の元家臣ら46名(赤穂浪士)が幕府より切腹を命じられる。浪士らは4組に分けて預けられていた大名家でおのおの、同日中に刑に処された。その日は西暦でいえば1703年3月20日、314年前のきょうにあたる。
事の発端はその2年前、元禄14年3月14日(1701年4月21日)に江戸城・松の廊下で、播磨国(現在の兵庫県)赤穂藩主・浅野長矩(ながのり)が、高家肝煎(こうけきもいり)の吉良義央(きらよしなか)に斬りかかり、即日切腹となった事件にさかのぼる。一方の吉良は、喧嘩両成敗の慣習が適用されず、何のお咎めもなし。その不満から、浅野家取り潰し後、一部の元家臣が吉良の殺害を画策する。これに元家老の大石良雄も、浅野家再興の望みが完全に断たれたところで合流する。大石率いる浪士らが江戸・本所の吉良邸に討ち入り、本懐を遂げたのは、元禄15年12月14日(1703年1月30日)だった。
討ち入り後、浪士たちは処分が決まるまで、細川家・毛利家・松平(久松)家・水野家の四家に身元を預けられた。浪士の処遇は、預け先によって明暗が分かれ、大石らは細川家より厚遇を受ける一方、なかには小屋に閉じこめて厳重に監視する家もあった。
本懐を遂げた赤穂浪士に対しては、幕府の役人のなかにも同情的な意見が少なくなかった。将軍・徳川綱吉でさえ、浪士らの一途な忠臣ぶりにすっかり感銘を受け、助命したい気持ちに傾いていたとされる。そのなかにあって、あくまで極刑をもって処すつもりでいたのが、綱吉の重臣・柳沢吉保だ。柳沢は、家中の儒者・荻生徂徠(おぎゅうそらい)の提言を参考に、浪士らの面目を立てつつ、助命論を押しつぶせるとの理由から切腹という処置を選ぶことになる。
その日、松平家に預けられた最年少浪士、大石良雄の16歳の長男・主税(ちから)は、家中の者に呼ばれると、そばにいた浪士のひとり堀部安兵衛から「私もすぐに参ります」と言われ、互いににっこりと微笑を交わした。そして立ち上がると、切腹場へと向かったという。このことは、松平家の波賀清太夫という武士の覚書に書かれている。清太夫は、同家にあって浪士たちの処置をすべてゆだねられ、切腹の介錯人にも任じられた。ここから、国文学者の野口武彦は「介錯の太刀を執る場に立っていながら、清太夫は、安兵衛と主税との間にふとほのめいた同性愛の永遠の交情を見逃さなかった。もしかしたら、自身でもそれに似た情愛を感じていたのかもしれない」と書いているが(『花の忠臣蔵』講談社)、実際はどうであったのか。
切腹は、執行が命じられると迅速に執行された。各大名家からはその後、浪士の遺体を納めた桶が次々と、浅野家の菩提寺である高輪の泉岳寺へと送り出されていった。