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2019/12/28

―― 津田塾では、学部から大学院まで9年間過ごしていますが、そのときのことを「暗黒時代」だったと著書で書いていますね。何があったんですか?

田嶋 自分の問題ですね。英文学を研究するようになって、先生に論文を評価されて、それなりに成果をあげてました。でも、もう一つ、研究が自分の肌とぴったりこない。卒業論文でD・H・ロレンスを扱ったときも、自分の書いた論文に結論が出なかったんですね。提出日前日の夜中まで書けなくて、先生が翌朝、心配して下宿を訪ねてくれました。「賞をもらえる論文なのに結論が出せなくてどうする」って先生をガッカリさせて、ものすごい敗北感。大学院に進んでからも、日本で英文学を研究することにどういう意味があるんだろう、と考え込んじゃって。私の内面が、ちっとも研究に直結しなかったんですね。結局は、自分の研究対象を女性学的視点で見る勇気がなかったことと、それをするための蓄積が不十分だったということです。だから、ずっと悶々として過ごしてました。

 

46歳のとき、母親と和解できた理由

―― 先生にとってフェミニズムとの出会いはいつだったんですか?

田嶋 気づかなかっただけで、ほんとは自分の中にあって、生まれてものごころつく前に出会ってたんですよ。自分と出会っていたというと、ちょっと変な言い方になるけど。もともと女の人の中に、あるいはすべての人の中にあるものなんですよ。「女らしくしろ」と育てられた子どものころから、人生が理不尽だと感じていたわけだし。私の場合、フェミニズムに関する立派な本に惚れ込んでフェミニズムがはじまったわけじゃない。自分で一つずつ闘いながら積み上げていったんです。だから、田嶋陽子流フェミニズムなんですよ。

―― 大学院を出てからはイギリスにも留学し、英文学者としてご活躍されます。そして46歳のとき、お母さまと和解されたそうですね。きっかけは何ですか?

田嶋 それは、恋愛の終わりですね。留学中に出会ったイギリス人の恋人と10年くらいつきあってました。イギリス人だから対等な関係が築けると思ってたんだけど、愛が深まってくると男の人の本音が出てくる。私を支配しようとするわけ。そのとき、デジャヴを感じたんです。後で分かったんだけど、彼の私の扱い方が母とそっくりだったんですね。それに気づいたとき、「あっ、これなんだ」と自分を苦しめていたものがわかった。それから私は彼に自己主張できるようになって、恋愛も終わりました。そしたら、母に対しても今まで言えなかったことが言えたんです。「お母さん、これは私の問題だから、私に決めさせて」。それが46歳のとき。