彦根藩が生み出した近江牛のルーツとは?
今回の取材で興味深かったのは、彦根藩と近江牛の関わりです。古来、仏教思想から食肉習慣のない日本において、近江では日野(滋賀県日野町)の蒲生氏郷が牛肉を好み、いち早く領内で食肉牛を飼育していたといわれます。天正18年(1590)の小田原攻めの際には、キリシタン大名の高山右近が同じくキリシタン大名の氏郷と細川忠興に牛肉を振る舞ったという言い伝えも。主要街道が通る近江は中世から商業が活発で、氏郷も楽市楽座を置いて商業を活性化していました。日野商人(近江商人)が、牛肉食文化の普及に貢献したのかもしれません。
江戸時代中期、第3代藩主・井伊直澄の時代になると、彦根藩士の花木伝右衛門が牛肉を味噌漬けにした「反本丸(へんぽんがん)」を考案し、近江の牛肉は養生薬として日本各地に伝播しました。陣太鼓に使用する牛皮を幕府に献上するのが、彦根藩の毎年の慣例。牛の屠畜が幕府に特例で認められていた彦根藩だからこそできた発明だったようです。反本丸は彦根藩主の井伊家から将軍家や諸大名に献上され、やがて牛肉を乾燥させた「干し肉」も開発され各地に贈られました。
幕末の文久3年(1863)頃に、イギリスの写真家であるフェリックス・ベアトが撮影した宿場町厚木の写真を見ると、店の看板には「牛肉漬」「薬種」と表記されています。この頃も、彦根産の牛肉漬けは薬用として販売されていたようです。ちなみに、近江牛と呼ばれるようになったのは、明治時代半ばのこと。明治維新による文明開化とともに食肉文化も開花し、「江州牛」と呼ばれた近江産の牛肉も東京まで運ばれ人気を博しました。明治23年(1890)、東京から鉄道輸送が開始されたのを機に「近江牛」と呼ばれるようになったとみられます。
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彦根城をめぐる旅の模様は、「文藝春秋」1月号に掲載しています。
撮影=萩原さちこ