備中松山城の最大の魅力は、中世の城と近世の城の姿が共存することです。中城のある標高約480メートルの臥牛山は、大松山、天神の丸、小松山、前山の四つの峰からなります。鎌倉時代に大松山に築かれた砦が備中松山城のはじまりで、戦国時代には全山が一大要塞化され、関ヶ原合戦後に小松山だけが改造されて、石垣や天守のある現在の姿になりました。中世の城から近世の城へとリフォームされた、新旧ブレンドの城なのです。

二の丸から見た備中松山城。奥が現存する天守。

「備中兵乱」で落城も経験

 数々の転機を迎えながら廃城にならず存続したのは、重要な場所にあるから。江戸時代になると山麓に御根小屋が築かれて政庁としての機能は移りましたが、それでも山上の城が維持され続けたのは、山城そのものが特別な存在だったからかもしれません。

 戦国時代の天正3年(1575)には、「備中兵乱」と呼ばれる愛憎入り混じる大乱の舞台になり、落城も経験しました。慶長9年(1604)に城主となった小堀遠州がつくった庭園のある頼久寺に、毛利・宇喜多連合軍に敗れて自刃した三村元親のお墓があります。

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大松山城。現在でも曲輪や土塁が残る。
城下町の保存地区、石火矢町ふるさと村。かつては武家地で、武家屋敷も残る。
頼久寺にある、三村元親、子の勝法師丸、父の三村家親の墓。

 城塞化された寺町が残る城下町も備中松山城の見どころのひとつですが、この道筋も備中兵乱のときの敵の進軍路を意識してつくられているのだとか。備中兵乱を知ると、備中松山城歩きはより深く楽しく感じられるはずです。

城主よりも有名な「山田方谷」とは?

 備中松山城へは数えきれないほど訪れているのですが、何度か訪れるうち、「山田方谷」なる歴史上の人物が地元で誰よりも慕われていると気づきました。なんと、2019年10月には、大河ドラマ化を目指す署名が103万人を突破した人気ぶり。地元では呼び捨てではなく「方谷先生」と呼ばれるほど尊敬され、JR伯備線には方谷駅もあります。かの有名な、長岡藩の河井継之助も師事したほどです。