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藩の財政に潤いを与えた名君・水谷勝隆

 方谷のほか、私がもっとも推したい備中松山城ゆかりの人物は、寛永19年(1642)に城主となった水谷勝隆です。備中松山藩の発展はこの人の功績にあると言っていいでしょう。勝隆が目をつけたのが、備中松山藩の飛び地だった高梁川河口付近の玉島(倉敷市)。広大な干潟だった玉島新田を本格的に開発したことで、繁栄に成功しました。

 高梁川と瀬戸内海を結ぶ、高瀬舟の整備を行ったのも勝隆です。備中松山城の麓を流れる高梁川は古くから流通を支えてきましたが、高瀬舟の整備により、さらに瀬戸内海と備中の内陸部の交通が円滑になりました。鉱山業を振興し、近隣の阿哲(新見市阿哲地区)や成羽(高梁市成羽)の鉄、吹屋(同)の銅などを高瀬舟で流通させたのです。玉島を瀬戸内海の玄関口として、鉱物のほか、和紙や漆、煙草などの物産が運ばれました。

城下町に展示されている、復元された高瀬舟。

 なかでも、煙草は江戸で大ヒットしたようです。松山往来や新見往来など陸路もありましたが、大量輸送には舟運のほうが効率がよく、高瀬舟は大活躍して藩に潤いをもたらしました。

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 備中松山城に、現存する天守や累々と残る壮大な石垣を築いたのは、勝隆の子の勝宗です。勝宗がこれほどの城の大改修をできたのは、藩の財政が潤っていたからでしょう。水谷時代の石高は5万石でしたが、実際には10万石以上だったともいわれます。

天守は天和3年(1683)に水谷勝宗により築かれた。
岩盤上に積まれた、迫力ある大手門付近の石垣。

 備中松山城の石垣の積み方を見ると、先進先鋭な織田・豊臣系の城の技術ではなく、1680年代に築造されたわりには洗練された石垣とはいえません。政権の流れを汲まず、地元の職人が技術を駆使して積み上げたのでしょう。やはり、それだけの人を動かす経済力が当時の藩にあったのだと思われます。社会背景も読み解ける、野趣に富んだオリジナリティ溢れる備中松山城の石垣が、私は大好きです。

撮影=萩原さちこ

※備中松山城をめぐる旅の模様は、「文藝春秋」12月号のカラー連載「一城一食」にて、計5ページにわたって掲載しています。