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10万両の借金を8年で返済 備中松山城を支えた2人の“改革者”とは?

大河ドラマ化を目指す署名が103万人を突破!

2019/11/22
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 備中松山城の最寄り駅である備中高梁駅前に建つのも、方谷の銅像です。戦国時代に備中兵乱で落城した際の城主・三村正親でもなく、備中国奉行として城と城下町を整備した小堀遠州(政一)でもなく、現存する天守や石垣を築いた水谷勝宗でもありません。

大手門跡。圧巻の石垣で囲まれる。
江戸時代から残る、天守。

10万両に膨れた藩の借金を8年で返済!

 方谷は幕末の陽明学者で、逼迫した備中松山藩の財政再建と藩政改革を成功させた人物です。10万両に膨れた藩の借金を8年で返済し、さらに10万両の蓄財を成し遂げたのですから、まさに伝説の改革者。幕末の備中松山藩は、公称5万石でありながら実際には2万石と、現代でいうなら粉飾決算を繰り返した末の破産状態でした。その状況を巻き返したのが、方谷というわけです。

雲海展望台から望む、備中松山城と城下町。

 良質な砂鉄が採れる地域特性を生かし、鉄工場を設立。輸送船を使って江戸で鉄釘などの鉄製品を直売し、藩の専売事業にして利益を上げました。藩を挙げての大倹約令を断行しつつ、一方で農民の保護策を徹底。新田開発や殖産により財政が豊かになると、税を軽減して生産意欲を刺激させるという庶民ファーストな計らいもしています。

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高梁の名物「柚餅子」 ©志水隆/文藝春秋

 本誌で紹介した「柚餅子」も、方谷に関係する高梁名物です。方谷は、城下の家々に柚子の木を植えることを奨励。採れた柚子を使って柚餅子を大量に製造し、江戸、大坂に販売したのです。