被害者にとって理想的な終息とは
かつて、いじめられている女子高生を救おうとした、同じクラスの男子高生に話を聞いたことがある。「担任に話したことでいじめは一時的にやんだんですが、先生がいないところとか、学校外でのいじめが激しくなって、止められなくなったんです」。
別の取材では、いじめられている友人を見た、ある男子中学生は正義感からか目の前で被害を食い止めた。しかし、数日後、逆にいじめられた。そのいじめ集団に、いじめから逃れられた友人がいた。「お前が?」と愕然とするが、助けられた側からすれば、地域で生き延びるには、いじめられるままか、いじめる側にまわるかでしかない。助けられた側には、まさに「余計なこと」だったのかもしれない。
いじめは「止める」という行為ではなかなか収まるものではない。もちろん、伊藤容疑者の、「いじめから助けたい」という心情は間違いではない。しかし、被害者にとって、望まれるいじめの終息を想像できなかったのかもしれない。このことは、誘拐事件でも同じことが言える。
具体的な解決策なしには…
小山の誘拐事件のように、親と過ごしたくない子どもたちがSNSに、その内容を投稿するのは珍しくない。DMで話を聞いたり、相談に乗る行為まで違法ではない。こうしたやりとりは、子どもの心の整理に役に立つ。
実際、当初、伊藤容疑者は女児と心理的距離を縮めるやりとりができていた。仮に会うとしても、DMの延長として話を聞くだけでもよかった。保護が必要な状況であれば、児童相談所や警察に通報すればいいし、そうでなければ、見守る姿勢でよかった。
伊藤容疑者の、子どもを助けたいという正当性は、誘拐という違法行為によって打ち消された。保護された女児にとっては、伊藤容疑者宅にいることを受け入れられず、また、安全とも思えず、交番に助けを求めた。
まるで、中学時代に、いじめられている女子生徒を助けたいというストレートな気持ちだけで、逆に、その生徒からは受け入れられないことに似ているのではないか。
希死念慮(死にたいと願うこと)や援助交際の書き込みがSNSには多くある。多くは生きづらさの表出としての行動なのだろう。「死にたい」とつぶやいたある女子大生には「死んじゃダメ」とリプライがあったという。しかし、彼女は「ありがた迷惑」と話していた。自分本位だったり、欲望のままの声かけは、まさに「余計なこと」なのだ。