いまから90年前のきょう、1927年4月20日、陸軍大将で政友会総裁の田中義一を首班とする内閣が発足した。その3日前には、第一次若槻礼次郎内閣が、折からの金融恐慌で窮地に陥った台湾銀行の救済のため、緊急勅令案を枢密院(明治憲法下の天皇の最高諮問機関)に諮ったが、否決されて総辞職していた。

シルクハットをかぶり、枢密院に向かう田中義一 ©共同通信社

 勅令案の否決によって台湾銀行は18日に休業に入り、大手銀行を含む全国の銀行で預金の取り付け騒ぎが起こる。その対処のため、田中内閣には、財政のベテランで元首相の高橋是清が大蔵大臣として入閣した。高橋が蔵相となったのは、内閣の数でいえば、これで4度目だった。

 高橋の指揮のもと田中内閣は発足してすぐ、5月12日まで3週間のモラトリアム(支払猶予)と、市中銀行の支払準備のために日本銀行が非常貸出しを実施することを決め、枢密院の承諾を得る。これと並行して、4月22日・23日両日には全国の銀行に一斉休業が命じられた。日曜だった24日を挟んで営業を再開した銀行の窓口には、預金の払い戻しに対処するため紙幣が積み上げられた。このとき日銀は各銀行に大量の紙幣を貸し付けるのに、通常の印刷ではまにあわないので、片面だけ刷った裏白の200円札、50円札を急造している。しかしふたたび取り付け騒ぎが起こることはなかった。

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高橋是清 ©共同通信社

 このあと5月に、田中内閣は臨時議会を開き、日銀特別融資のための法案を野党・憲政会の全面的な協力のもとに、5日間で成立させた(5月8日)。高橋はこのとき72歳の高齢で病後の身であったが、国家の危機を見すごすわけにはいかないと、30、40日間の約束で蔵相を引き受けた。実際、金融恐慌が収拾したのち6月2日には、後任に三土忠造を据え、42日間で退任している。

 じつは台湾銀行救済案が枢密院に否決されたとき、若槻内閣のなかには、天皇に直接訴えてでも通そうという強硬意見も多かった。しかし当時の蔵相・片岡直温は、そうしているあいだに台湾銀行が倒れてしまっては元も子もないと判断、これを受けて若槻内閣は、対応を次期政権にゆだねて早期退陣する。高橋が迅速な危機対応をとることができたのも、そのおかげであった(松元崇『恐慌に立ち向かった男 高橋是清』中公文庫)。