今週の週刊文春、モノクログラビア欄の「ドキュメント 男の肖像」は、浅草キッドの水道橋博士を密着取材している。「本やCD、DVDがずらり棚に並ぶ博士の自室」とキャプションがつく写真には、平岡正明の著書群や筒井康隆全集、映画秘宝のバックナンバーなどが並ぶ書棚を前にして、ふたりの子供と戯れる水道橋博士の姿がある。

水道橋博士 ©釜谷洋史/文藝春秋

手塚治虫『アドルフに告ぐ』のピンチヒッター

『アドルフに告ぐ』、その書影が水道橋博士の真後ろに見える。この手塚治虫の晩年の傑作マンガは、週刊文春が初出であった。“ロス疑惑”騒動のきっかけとなるスクープ「疑惑の銃弾」と同時代の、1983年から1985年にかけての連載である。

 連載中、事件が起きる。手塚治虫の原稿が間に合わず、こりゃマズいことになったと、さる若者が編集部に呼ばれる。誰あろう、若き日のみうらじゅんである。手塚治虫の代役がみうらじゅん。なかなかの超展開ではないか。

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 みうらじゅんは、最近のインタビューでこう述懐している。

《糸井(重里=引用者注)さんから電話がかかってきて、『週刊文春』で手塚(治虫)先生の『アドルフに告ぐ』が落ちた、大変だ、お前埋めろと言われた。とりあえず編集部に行って今晩中に描いてほしいって言う。四ページ余っている。編集部に夜中に行って、朝までかかって「革とママ」っていうマンガを描いたんですよ。》(注1)

 見事に急場しのぎの代役を果たしたみうらじゅん、現在は週刊文春で「人生エロエロ」を連載中である。

みうらじゅん ©山元茂樹/文藝春秋

ダディ竹千代の“代役”、ビートたけしが築いた熱狂の時代

「したくない仕事しか来ないんです。でも、運は、そこにしかない」(注2)とは萩本欽一の言葉だ。急場しのぎの代役も、なにしろ急にふられる話なのに実力を計られるのだから、したくない仕事に違いない。

 おもえば、水道橋博士の師匠・ビートたけしの「オールナイトニッポン」も、急場しのぎの代役として始まったと言える。というのも前任のDJ、ダディ竹千代の番組が打ち切りになり、次へのつなぎとして、3ヶ月限定の扱いであったのだ。ところがファンはもとより小林信彦など文化人をも引き込んでいき、スタジオでバウバウと笑う高田文夫まで有名にしながら、3ヶ月どころか10年続いて、熱狂の時代を築く。

 水道橋博士は高校時代、このラジオ番組に救われる。高校1年をダブり、どん詰まりの日々、唯一の楽しみが、たけしのオールナイトニッポンであったのだ。ただ聞いていたのではない。「番組を全部カセットテープに録音して、たけしさんが言ったことを全部ノートに書きました。ほとんど写経でしたね」(注3)。今でこそ、ラジオを書き起こしてHPにアップする「書き起こし職人」なんてのがいるが、水道橋博士はただ自分のために書き起こし続けたのである。

ビートたけし ©杉山秀樹/文藝春秋

芸の継承、そして書き遺す使命感

 水道橋博士は書く人だ。なにしろブログという言葉がない時代から、21年にわたってWEB日記を書き続けているくらいである。

 くだんの「男の肖像」では、生涯をかけて取り組む著述として、ビートたけしの評伝を構想していると語る。

《『俺は偉くなんかなりたくない。でもひとつだけ、王様は裸だと言える権利をくれ』という芸人として生きる姿勢、それをぼくは見続けてきた。最近は、殿の人生を書くために生まれてきたんじゃないかとさえ思っているんです》

 芸の継承ではなく、書き遺すこと。それがたけしへのあこがれから明治大学への入学や中退、フランス座での修業と経歴をトレースしていき、長男に「武」と名付けまでした、「ナポレオン狂」(阿刀田高)ならぬ「たけし狂」の水道橋博士の到達点なのか。

「ぼくは自分を芸能界に潜入したルポライターだと思っていて、『藝人春秋』でも、芸能界にいる自分の周りで実際に起きた出来事を書いています」。そんな“芸能界のルポライター”の連載「藝人春秋」が、文春の来週号で再開される。

(注1)「ユリイカ 2017年1月臨時増刊号 総特集◎みうらじゅん SINCE1958」・20頁
(注2)ほぼ日刊イトイ新聞 https://www.1101.com/kinchan/2004-09-06.html
(注3)柳澤健「1974年のサマークリスマス」320頁