過剰の医療は患者を苦しめる
1969年、美濃部亮吉都知事は、70代以上の高齢者の医療費を無料化し、喝采を浴びました。しかし私も後期高齢者の1人として思うのは、高齢者は「若者よりも我々に手厚い医療を」とは、誰も思っていないということです。
医療とは、人を病気やケガから救うためのものです。病院は人生の途上にある人たちのための身体の「修理工場」。なのに、「老衰」を「病」に含めて、病院は本来の仕事以上の業務を抱え込み、パンクしています。
死の間際まで様々な医療装置に繋がれている人は、皆険しい顔をしています。「平穏死」で亡くなった人が穏やかな死に顔をしているのとは対照的です。寿命が来て、人生の終着駅に近づいている人に“死なせない”ための医療を施すことは、自然の摂理に反しています。過剰の医療は、患者本人を苦しめ、尊厳を奪うことになりかねません。
終末期医療を考えることは生き方を考えること
日本では8割が病院で亡くなっていますが、今後は、在宅や老人ホーム等の施設で亡くなる人の割合が増えていくでしょう。その時に必要なのは、施設や在宅における看護師や介護士の充実です。高齢者には身体のケアよりもむしろ、心のケアが求められるからです。
「人間の終末期には、医療ではなく、むしろ福祉ケアが必要だ」
いまから20年ほど前にそう主張したのは、社会学者の広井良典氏でした。『社会保険旬報』に「死は医療のものか」と題した論文を発表したのです。しかし、これを読んだ医師たちからは大反発が巻き起こりました。彼の議論はいわゆる「みなし末期論」と呼ばれ、「方法がある限り延命治療をすべき」と考える当時の医師たちには到底受け入れられなかったのです。
それから20年経ち、医師主導の治療から、患者本人の意思を尊重した看取りが受け入れられるまでに変わりました。世の中の終末期医療に対する意識の変化を肌で感じ、隔世の感があります。私はいま、長年終末期医療のあり方を考え続けてきた集大成として、これまで看取った方々から学ばせていただいたことを『「平穏死」を受け入れるレッスン』という1冊の本に、書き綴っています。
終末期医療を考えることは、生き方を考えることです。日本人は、西行法師が「願わくば花の下にて春死なんその如月の望月の頃」と詠み、その歌の通り、満開の桜の木の下で最期を迎えた「生きざま」に共感する独自の死生観を持っています。
私たちはこの20年、医療は「老衰」とどう向き合うべきか、迷い道に入り込んでいました。いま、「このままではいけない」と、終末期医療の現場から、熱いエネルギーがマグマのようにくすぶっているのを感じています。老衰を受け止めて穏やかな死を迎える。方向性は、4年後によりはっきりと見えてくるのではないかと期待しています。
出典:文藝春秋2016年7月号
石飛 幸三(医師)