北島三郎が最後に言い残したこととは?
森進一や細川たかし以前にも、紅白を自ら辞退した歌手は少なくない。2013年には、北島三郎が歴代トップとなる通算50回目の出場を機に《50回の区切りで1本、線を引いて、若い人たちに道を譲れればと思った》として、紅白からの引退を宣言したのは記憶に新しい(※2)。ここでもキーワードはやはり世代交代だった。
紅白のオファーを辞退し続けた歌手
1998年に出場を辞退し、《今後、曲がヒットしても(紅白に出たくなることは)ありません》(※3)と卒業を宣言した都はるみの場合はやや理由が異なる。この年、日生劇場などで1ヵ月公演を打つなど多忙をきわめた彼女は、すでにコンサート・シンガーとして自信を深めており、紅白と共生する意味も興味も失ったという。当時の新聞には、《NHK側は「極めて惜しい」(選定スタッフ)と悔しがりオファーを続けたが、かなわなかった》とある(※4)。
都はるみは、1984年の紅白をもって一旦は歌手を引退し、後進のプロデュースなどに注力するが、5年後の紅白出場を機に歌
「わいわいやるのも楽しいが、合戦じゃなくなってきた」
さて、平成最初の紅白第1部に出演した歌手のうち三波春夫も、1987年に一旦は紅白を出場辞退していた。このときNHKに対し、《今年の紅白歌合戦はかなり模様替えすると聞いている。引き際が肝心と思い、後進に道を譲りたい》と申し出たという(※7)。実際、この年の紅白は出場者が大きく刷新された。シャンソンの金子由香利、オペラの佐藤しのぶ、童謡の由紀さおり、民謡の竜童組、ロックの小比類巻かほる、ニューミュージックの谷村新司や稲垣潤一とそれまで選ばれにくかったジャンルをも取り込み、海外からも韓国歌手のチョー・ヨンピルが出場している。三波はまた、辞退表明後の記者会見で、《応援合戦のリハーサルに疲れて本番では十分に声が出ない歌手もいる。幼稚園の学芸会みたいな応援合戦はやめてほしい》と近年の紅白の風潮に対し批判も口にした(※8)。