世代交代とあわせ、紅白自体の“変質”を理由に出場を辞退したという意味では、じつは北島三郎も三波と共通する。北島は昨年1月のインタビューで、あらためて紅白卒業の理由を訊かれ、次のように語っていた。いわく、かつての紅白は歌い手にとって1年を締めくくる大切なイベントであり、文字どおりの合戦、真剣勝負の場だった。《でも90年代ぐらいからグループが増え、派手に踊って盛り上がって……。そんな中で、自分が歌うというのは少し場違いなんじゃないかとも思うようになった》、《わいわいやるのも楽しいが、合戦という形じゃなくなってきた。それなら日本の歌の祭典として若い世代に頑張ってもらいたいと思ったんだよ》というのだ(※9)。
「何としてももう一度、紅白に出たい」
三波春夫が辞退した1987年にはまた、「人生いろいろ」がヒットし、31回連続となる紅白出場は確実とみられていた島倉千代子も辞退している。本人はその理由を《私もいつかは落ちるときがくるでしょう。それなら三十回を区切りに、花のあるうちにと思いました》と説明した(※10)。もっとも、島倉は翌1988年の紅白には出場し、「人生いろいろ」を歌っている。同曲が50万枚売れるヒットとなったのを受け、ファンだけでなく、当時がんで闘病中だった作曲者の浜口庫之助へ感謝の気持ちを込めて歌おうと思い立っての復帰であった。このときも、これきりとのぞんだ紅白だったが、島倉は結局その後も、歌手生活40周年を迎えた1994年から3年連続で出場、さらに50周年の節目の2004年には通算35回目の出場を果た
三波春夫もまた、1989年の復活に続き、1999年にも50回の節目となった紅白へ久々に出場し、渾身の「俵星玄蕃」を披露した。紅白の元プロデューサーの島田源領は後年、ここにいたるまでの裏話を