大人や男性から嫌われる少女は存在する。私も殺されていたかもしれない。
――しかも、3人だけの時に彼女たちの間に何があったのか、それぞれの心情については〈わたしたち〉が空想して語っているわけですから、語られていることが事実や真実とは限りませんね。
松浦 そうですね。やっぱり他人を書くというのは非常に暴力的な、支配的なことですよね。どうやって一方的な支配にならないよう、批評的に書くかということを考えて、真実かどうかはわからない、物語っている自分たちがすべてを把握しているわけではないというふうに書いています。つまり妄想の部分は妄想としてきちんと分けて書いている。
だいたい物語を書いたり読んだりしていやらしい意味で気持ちよくなるのは、これが真実だと信じられる時だと思うんですよね。それも、自分の真実ではなく他人の真実。でも“わたしたち”と自称する子たちは、そこまで真実に欲情しないというか、欲情はしているんですけれども、欲情のままに真実を弄ぶのが身勝手で傲慢なことだという意識を持っている。それで、妄想は妄想として分けて語ります。
――ファミリーのパパ役である日夏、ママ役である真汐、王子様役である空穂という3人は、それぞれどんな人物像をイメージしていましたか。真汐は自分が違うと思うことに決して屈しない頑なさが格好良いけれど、世渡りは上手くない。日夏は人を惹きつける余裕と魅力があり、空穂は気が弱く世間知らずという印象です。
松浦 真汐というのは、大人や男性からすごく嫌われる存在なんですね。特に真汐をこういう人物として書かなければいけないと思ったのは、10年以上前のことですが、京都の学習塾で、アルバイトの講師が小学6年生の女の子を殺す事件があったんですよ。初期の報道では、被害者の女の子が、講師の男性に対して嫌悪を露わにしていたので、憎らしくて殺したというふうに伝えられた。後の調査で加害者の講師の特異性や、女の子が加害者を嫌ったのはしつこく接近されたからだということがわかったのですが、初期の記事を読んだ直後には、大人が子どもを憎しみから殺したということが衝撃的で、運が悪かったら自分も子どもの頃に殺されていたかもしれないと思ったわけですよ。私も嫌な大人には嫌悪を隠せないタイプの子どもだったので。ああ、あの時の大人たち、殺さないでいてくれてありがとうって思いました。
――本当に、松浦さんを殺さないでくれてありがとうございます(笑)。というか、そんな子どもだったんですか。
松浦 そんな少女や子どもが存在することを多くの人は知らない、というか知っていても気に留めないと思うんですね。一般に子どもは可愛がられて、大事にされると思われているんだけれども、それは可愛い子どもだけで、一方には可愛げがないということで憎まれる子どももいるわけです。そんな子どもは、ひねくれていたり感情を出しすぎだったり不器用だったりするんですけど、そうなるにはそうなる理由がある。そういう子のことを黙殺するのではなく、ちゃんと書かなきゃいけないと思って、真汐をこういうキャラクターにしました。