この十年来、映像表現の世界で注目を集め続けているのが、脚本家の古沢良太さんである。最もよく知られるのは、テレビドラマのヒット作の数々。最近作の「デート 〜恋とはどんなものかしら〜」は、初共演の杏と長谷川博己を主人公に、恋愛から遠く離れた男女があえて恋愛に挑むさまを描いた。
その前は「リーガルハイ」。堺雅人+新垣結衣という人気コンビに、アクの強い弁護士の役柄をふって人気を博した。
映画では、昭和ブームを巻き起こした「ALWAYS 三丁目の夕日」に、小栗旬がアイドルオタクを演じた「キサラギ」、大泉洋と松田龍平の破天荒な探偵っぷりでシリーズ化した「探偵はBARにいる」など。
扱うテーマは幅広く、どんな職業・立場の人間も「いかにもこういう人、いそう」「こういう人がいたらいいな」といつだって思わせてくれる。これほどまでに縦横無尽にストーリーを操り、キャラクターを造形する書き手もなかなか存在しない。
かくも自在に作品を書ける不思議。その源泉は、いったいどこにあるのか。
「これが描きたい」というものが先立ってあるわけじゃない
「それは『これが描きたい』というものが先立ってあるわけじゃないから、かもしれません。これまで、そのつどいろんな依頼に応えて書くことを続けてきて、そうすると、知らず知らずいろんな書く技術が身についてきたりします。そのうち、こういうことができるのなら、今度はこんなものも書いてみたいという気持ちが湧いてくることもある。つまりは、技術に引っ張られて、書きたいものが出てくる。そういうのは確実にありますね。
技術的なメドが立って、手が届きそうになると、やりたいことがようやくはっきり立ち現れてくるんです。テーマや話の展開、登場人物の雰囲気から発想しているわけじゃないから、毎回バラバラのタイプの作品になっていくんじゃないでしょうか」
相手をギャフンと言わせたい
作品がバラエティ豊かなのは、自身の天邪鬼な性向もかかわっているという。
「こういうのはどうせできないだろうなどと言われると、相手をギャフンと言わせたくなって燃えてしまうところがありますね。このところツイッターを書くようにしていて、自分で自分のことを宣伝するのはちょっと抵抗があるので、猫のキャラクターを登場させて猫がつぶやいているかたちにしたりもしているのですけれど、そこでいろんな声を聞くことができます。古沢良太はこっち方面が不得意だなといった書き込みがあると、じゃあそのネタでなんとかいいものを書いてやると思ってしまったりする。まあ、天邪鬼ですね。
今はドラマでも映画でも、もともと原作のあるものを作品にすることが圧倒的に多くなっていて、そういう流れを見ていると、じゃあ絶対にオリジナルで闘いたい! という気にもなる。やったことのない媒体にもすごく興味が湧きますね。ネットドラマなんかはまだ手がけたことがないので、挑戦してみたいです」
それでこのところは、小説を書き継いだりもしている。先ごろは漫画作品『ネコの手は借りません。』も電子書籍で刊行した。じつは脚本家になる以前、漫画家を目指していたこともあるのだ。脚本の内容に留まらず、実際のジャンルも軽々と越えながら表現を続けている。